と、そんなふうにスターの加齢について考えていた折、マドンナが倒れたというニュースが世界中を駆け巡った。生死を彷徨うほどの危機だったというが、報じる記事の方向が、“マドンナが若いスターに張り合い、年齢を顧みない行動を取ったから”……というものがほとんどなことに胸を痛めている。ただマドンナの体力の限界を報じればいいのに、「年齢を顧みず」というニュアンスがほぼ全ての記事に含まれていることについて考えさせられてしまう。   

 ここ数年のマドンナといえば、音楽活動そのものよりも、年齢や顔のほうが話題にあがることが多かった。今年のグラミー賞でも、マドンナが何を話したかというより、マドンナの顔が激変していることが大きな話題になったものだ。眉毛がなく、唇が不自然に腫れ、恐らくボトックスやヒアルロン酸などの注射で顔の形も変わっているように見える。自分の姿が客観的に見えてないのではないか、整形のやりすぎだ、というような嘲笑を含んだ批判が吹き荒れたことについて、当のマドンナはどうどうとSNSでこういった反論していた。

「私はまたしても、この世界に蔓延するエイジズムとミソジニーの視線にさらされた」

「45歳を過ぎた女性を祝福することを拒否し、強い意志を持ち、努力し、冒険的であり続ける女性を罰する世界」

「家父長制に立ち向かって、何よりも私の人生を楽しもう」

「私のパワーとスタミナが怖いのね。私には、この世を生き抜く知性と強い意志がある。私のことは誰も倒せない、全てが試練だ」

 グラミー賞の数カ月前、私は本連載でマドンナの顔が激変していることや、セックスに固執するパフォーマンスについて批判的に記し、「マドンナほどのスターでも、女は上手に年を取るのが難しいのか」という内容を書いたのだけれど、グラミー賞で誹謗中傷を受けたマドンナの反論を読み、確かに……と反省するような思いになったのだった。

 マドンナの「変わりよう」は、マドンナの「変わらなさ」と表裏一体のものであるはずなのに、そしてマドンナにマドンナであり続けることを求めてきたのは「世間」であったはずなのに、60代になったとたんにマドンナの「変わりよう=変わらなさ」を問題にするのは、確かにエイジズムでミソジニーなのかもしれない。70代のジュリーが若い頃とあまりに変わったからといって誰も責めないのに、60代の郷ひろみがいつまでも郷ひろみであり続けることを誰も責めないのに。なぜ、女の加齢に、私たちは敏感に反応してしまうのか。それこそがエイジズムでミソジニーであることは確かなのだ。

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憧れと同情で目が離せない