ご訃報はまさしく青天の霹靂でした。とうてい現実のこととは思えず、悪い夢でも見ているのではないかと。無理もないでしょう。ぼくみたいに折にふれて病気のコンビニ店と自嘲している者ならともかく、煙草も酒もやめて筋トレに励み、悪役レスラーみたいな! 偉丈夫になっておられたし、病気のことは存知ませんでしたから。しばらくは茫然とし、涙も出ません。驚きと疑問の「なんでやねん」の繰り返しは、ライフワークのジャズ史の見直しが佳境に入ったところでしたから、憤りの「なんで連れていくねん」に転じます。
その夜は泣き明かし、次の夜は献杯で明かしたものの、現実をうけいれられない状態が続きました。これではいけないと腰を上げてはみたものの、聴いていても書いていても、中山さんの柔和な笑顔が浮かんできてものにはなりません。季節柄の体調不良も手伝って無為の日々を送ることになりました。この一カ月、結果的に喪に服したようなものです。
これほどの悲嘆は50歳で逝った妹のときしか憶えがありません。確かに、中山さんはぼくをデビューさせてくれ、その後も幾度となく引き立ててくれた大先輩の大恩人です。しかし大先輩の大恩人の訃報に接するのは初めてではなく、それが理由とは思えません。血を分けた兄弟でも盃を交わした義兄弟でもない、長年つるんできた大の友人でもない、盲信していたわけではなく教祖様でもない、萌えていたわけではなくアイドルでもない。あれこれ巡らすうちに思い当たりました。「ぼくは理想のモデルを亡くしたんや!」と。
音楽への愛、智見、洞察力、文才などなど、あらゆる面で足元にも及ばないとはいえ、関西人に相通じるものの見方や考え方が無意識にそう向かわせたのではないでしょうか。関西乗りと揶揄されもするサービス精神、お上とその定め(例:定説や正史)に懐疑的な反骨精神、関西人だから見過ごされがちな綿密さ(しつこさ)といったところでしょう。ぼくらが誤解されやすいのも大方は一番目と二番目のせいかと。拙著『週刊ラサーン』に「中山風の軽口が折角の研究を損ねている」という評がありましたが、嬉しかったです。
そう思い当たってからもやもやが薄れはじめ、また「なんでやねん」のトーンも憤りから諦めに転じていきます。四七日(よなのか)も過ぎ、そろそろ動かないと叱られますね。そんななかで、映画『おくりびと』にふれた滝田洋二郎監督の一言(28日付け朝日新聞週末朝刊別刷り『be』一面「映写室」)を目にします。「亡くなった人への畏敬の念が、自分の人生を生きる勇気につながる」とありました。なるほど。踏ん切りがつきました。微力、あるいは非力を省みずに、ぼくはぼくなりにジャズ史の見直しを続けていきます。
さて、あと3週間で向こうに渡られるわけですが、その足でマイルス、両エヴァンスに会いに行かれるのでしょう。お願いがあります。向こうで落ち着かれたら、エリントンとカークに渡りを付けておいていただけませんか。そのうちにこういうヤツが来るからと。なお、快諾が得られてもお知らせ、ましてお迎えには及びません。必ずまいりますので。
中山さん、ほな、そのときに。
(林建紀/ジャズ研究家、翻訳家)