
徐々に人気が出てきて、ファンに追いかけられて電車に乗るのが大変になってきた時期に、デビュー曲の話が出た。
「日に日にテレビ局の外で待っているファンの人たちが増えていきました。デビュー曲を出したころには、池袋サンシャインで新曲キャンペーンのイベントをすることになったんですけど、人がたくさん集まり過ぎて、中止になったこともありました。メンバーのみんなと『なんか、私たちすごいことになってきてない?』と話したのを覚えています」
グループとして人気が出てくると、おニャン子からソロやユニットでデビューするメンバーが出始めた。河合その子は85年9月に「涙の茉莉花LOVE」でソロデビュー。同時期に、高井麻巳子と岩井由紀子の2人は「うしろゆびさされ組」を結成し、ユニットとしてデビュー。城之内も86年6月、演歌「あじさい橋」でソロデビューし、いきなりオリコン総合シングルチャートで初登場1位を獲得した。
87年8月、「夕ニャン」の番組終了とともにおニャン子クラブも解散。活動期間は約2年半だった。
「みんなで『3カ月くらいで終わるよね』って言っていたら、2年半も続いたという感じでした。でも、卒業後しばらくは夕方5時半になると寂しかったですね。局のスタッフと本人と親で三者面談をして、卒業後の進路について話し合いました。卒業後もタレントをやりたいというメンバーは案外、少なかったんですよ」
卒業後の進路を見ると、航空会社の客室乗務員、歯科助手、レコード会社勤務など一般人として就職したメンバーも少なくない。
卒業から35年。城之内は演歌歌手として毎年のようにシングル曲を発表する一方、タレントや女優としても活動を続けてきた。
参議院議員となった元メンバーの生稲晃子とは同い歳だ。生稲の経営する東京・六本木の鉄板焼き店にも訪れていたという。
「先輩や友達と行くこともありました。あっこ(生稲晃子)は店名の入った黒いTシャツを着て、おかみさんとして店に出ていましたよ。テーブルに料理を運びながら『この焼酎の銘柄は~~』となめらかに説明していて、接客も上手でした。あっこは敵をつくらない人柄だから、人が集まってくるんですよ。あっことは同じ事務所だったので、本人から電話がかかってきて、『ごめんねー、お願いします』って。あっこに『スピーチの内容は、笑いを誘うようにいじった方がいいの? それとも褒めた方がいいの?』って聞いたら、あっこは『半分褒めて、半分いじって』って(笑)。応援演説中は、あっことは壇上で少ししゃべったくらいで、ゆっくり会話する時間はなかったけど、(応援の)次の日にはお礼の電話がありました」