原発事故を、箭内さんは必ず「東京電力福島第一原子力発電所の事故」と呼ぶ。首都圏で使う電気を発電していた東電の原発事故であることを曖昧にしないためだ。こうも話す。
「ほかの原発は、中部電力浜岡原発、関西電力高浜原発など、地元の市町村名が名前になっています。福島だけは県名。もし大熊原発とか双葉原発とかだったら、全国で3番目に広い福島県全体への影響は違ったかもしれない。一方で、地元だけでは立ち上がれなかったでしょう。だからこそ、県全体で乗り越えていこうとしてきたのです」
もっとも、箭内さんはずっと、故郷が嫌いと公言し、逃げてもいた。
生家は郡山市中心部にあった、小さな菓子店兼牛乳屋。二人兄弟の長男で、小学生のころから牛乳配達など店の手伝いをしていた。褒められるし、友だちと遊ぶよりも気楽だったという。
一方で、濃すぎる人間関係が苦手だった。近所の人たちのマイナスの噂話でコミュニケーションが成立している。その輪の中の一人に自分がいることも耐えがたい。
大学受験は東京藝術大学一本に絞るが、三浪した。最初の2年間は東京で予備校に通い、講師が「明日試験でも受かる」と太鼓判を押すほどデッサンが得意だったのに、結果が出ない。義務で描いているからではと思い、3年目は描きたくなるまで待った。その日は、入試の当日まで来なかった。そして、数十倍の倍率を突破し、美術学部デザイン科に合格した。
この間、周囲は「才能がないんだから、もうやめなさい」と助言してくる。それでいて合格すると、「絵を一枚描いて」「俺は受かると思っていたよ」と急に優しくなった。
箭内さんはあるときから、故郷には元日しか帰らなくなった。それも、金髪を黒いニット帽で隠し、誰もいない時間帯に駅からタクシーで実家へ向かった。
「人の心の中に土足で上がってくるようにも感じました。それが深いあたたかさだとわかるまでは時間がかかりました」
2007年に地元紙「福島民報」から創刊115周年の別刷り11ページのディレクションを依頼されたときも、最初は断った。結果的に引き受けたことをきっかけに故郷に携わりはじめ、それを決定的にしたのが東日本大震災であった。
人口減、お祭りなど地域の文化をいかに継承するか……。福島の課題は次から次へと現れる。箭内さんは昨年、県とともに、地元のクリエイターたちを育てる道場「誇心館」を立ち上げた(主催は県)。福島に暮らす人だからこそできる発信もある、という。
震災から12年。復興も、ブランディングもまだ道半ばである。しかし箭内さんは、「風化」を肌で感じている。『ふるさとに風が吹く』のゲラをチェックする最後の段階で、まえがきに書き加えた。
「『もういいんじゃないか』『もう大丈夫でしょ』という声が/聞こえ始めていることも事実です。/……新しい苦難が、世界の各地で、今日も生まれているなかで/立ち止まり、/ふるさとの発信の今日と明日を/考えています」
いまは「もう大丈夫」ではない。いつの日か、誤解が理解に変わり、「あなたの思う福島は……」といった広告が必要なくなる。そのときが来ることを、箭内さんは一つのゴールに定めている。
やない・みちひこ
1964年生まれ。クリエイティブディレクター。博報堂を経て2003年「風とロック」を設立。数々の話題の広告キャンペーンを手がけ、フリーペーパー「月刊 風とロック」も発行。東京藝大美術学部教授。2015年から福島県クリエイティブディレクター
かわじり・こういち
1974年生まれ。編集者・作家。早稲田大政治経済学部卒。雑誌「広告批評」を経て、現在はクリエイティブとジャーナリズムをつなぐ様々な活動を展開。評伝『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(朝日新聞出版)で第75回毎日出版文化賞受賞
※週刊朝日 2023年5月26日号に加筆