少し森の中に歩みを進める。迷路のような細い径が様々な線を織りなし、どこまで続いているのか……。少年の日の大江さんは、この森の中で何を夢見て、どんな思考をめぐらしたのだろうか。
大江さんのどの作品にも森は登場する。『個人的な体験』にも『万延元年のフットボール』にも、父上のことを描いた『水死』にも。大江さんの難解と言われるその作品は、森の存在なくしては読み解くことができない。
森は様々なメタファーを大江文学に与えた。大江文学を「私小説」と言った人がいるが、それは全て少年の日に端を発している。
後に日本ペンクラブの催しで同席することもあったが、お宅を訪ねて母上にお会いしたことをついに直接には話しそびれた。
下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中
※週刊朝日 2023年3月31日号