<男女、子供の善良にして興味多き読物を提供せんとするにあります。すなわち、毎号一流の大家の名論や有名作家の小説、家庭主婦の参考とすべき記事、男女小学生の心意を開発誘導する記事、絵画などを掲載しておるのはこのためであります>
新聞販売店の宅配網が重要な販売ルートだったこともあって、「週刊朝日」は家庭で読まれる週刊誌を標榜してきた。
それをより端的に示したのが、昭和30年代のキャッチフレーズ「茶の間の図書館」である。
その惹句に呼応するかのように、井上ひさしは少年時代を振り返る。
<中学時代、母と私たちは東北各地を転々としましたが、辛うじて家というものを支えていたのは、卓袱台の上の『週刊朝日』でした。そういうわけでテレビのそばに、『週刊朝日』がポンと置いてあるのが、日本の家庭の光景だという思い込みがあるのです>
では、「週刊朝日」が置いてあるのは、どんな「茶の間」だったのか。
それを考えるヒントになりそうなイベントが、1952(昭和27)年に開かれていた。
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その年の5月31日、大阪朝日会館は2階席まで満杯──1500名の熱気に包まれていた。
『表紙コンクール』の公開抽選を兼ねた「週刊朝日」愛読者大会である。
前年から始まった『表紙コンクール』は、向井潤吉や杉本健吉、東山魁夷、横山隆一といった幅広いジャンルの画家15氏が1号ずつ表紙の絵を描き、読者が人気投票をするという企画である。
もちろん、順位争いも盛り上がるのだが、なによりの目玉は、表紙の原画が抽選でプレゼントされること──さらに賞金や賞品もある。その抽選が、初めて公開でおこなわれたのだ。
当時の「週刊朝日」は読者50万人を謳っていた。コンクールは応募者1人が15票を持ち、それを画家ごとに案分して投じる仕組みだった。応募票数は約92万票だったので、単純に15で割っても6万人以上が応募した計算になる。抽選会への参加応募も5千を超え、うち3千人が昼夜二部に分かれて招待された。