30年前のエジプトのアンワル・サダト大統領、後継者のホスニー・ムバラク大統領、あるいはイラクのサダーム・フセイン大統領、リビアのムアンマル・カダフィ大佐、そしてシリアのハーフェズ・アサド大統領とその子息バシャール・アサド大統領は現代の独裁者として人々に知られている。

 わたしはサダト大統領がアレキサンドリアの広壮な別邸で客人と会った際に末席に連なった。大統領は辺りを睥睨(へいげい)し、重量感たっぷりだった。ムバラク大統領とは彼がまだ副大統領時代、来客の通訳として話す機会があった。その発言は平凡で、ポストの難しさを感じさせたのだが、少ない英語の語彙(ごい)を駆使していろいろ表現する巧みさが印象に残った。カダフィ大佐を目の前で観察して、あまり世評との違いを感じなかった。2012年にル・モンド紙の記者が『Les Proies(餌食)』という本を出して同大佐の女性解放者というイメージの裏面に広がる暗闇の世界を詳細に暴いている。フセイン大統領には会う機会がなかったが、大使たちでさえ会って会談したのはソ連(現ロシア)大使と後刻会談が理由で降格された米国大使の2人だけだ。参事官のわたしは、代わりに大統領夫人、2人の息子ウダイとクサイ、それに3人の娘、加えてクサイ夫人と2人の娘婿に会った。彼らはいずれも権力の甘い汁を吸う安逸な生活を当然とする人たちで、そこには放埒(ほうらつ)さの空気が満ちていた。

 シリアでは2011年3月に南部のダラア市で民衆蜂起が起きて以来、アサド政権は武力で平和的デモ隊を鎮圧し、その過程で数多くの国民が傷つき殺され、今や国民の半数が住む家を追われる前代未聞の悲劇が発生している。その元凶はアサド大統領と彼の政権であるというのが一般的理解で、西側諸国の指導者たちは彼をことあるごとに指さして、これ以上激しい言葉はあり得ないという表現で非難している。それからすると、サダト大統領やムバラク大統領などはるかに及ばず、カダフィ大佐でさえ恥ずかしくなる粗暴で血に飢えた、国民の福利厚生など眼中にない暴虐で傍若無人な支配者なのだろうと想像するばかりだ。

 そんなアサド大統領を非難してやまない欧米諸国の報道関係者たちがときどき大統領にインタビューする。2014年12月4日、フランスのパリ・マッチ誌がインタビューを報道した。質問が余りにも凡庸なので大統領の答えにはまったく新味がないが、それはともかく、記者がユーチューブ上で会見の模様をこう語っている。

《一般道路沿いにある会見場所に行くと、辺りには警備官がおらず、大統領本人がひとりで建物の入り口で出迎えてくれた。大統領は心温かい歓迎の言葉を述べ、愛想さえ口にする。そこには警戒心や冷たさなど一切なかった。彼は軍人ではなく、眼医者だったからか、医者のような説明ぶりだった。どんな質問にも、厳しい答えもあったが、よどむことなく答えた。ダマスカスの町の中ではどこにも警察官がいるのに、そこはまったく違った世界だった》

 この記者の説明はわたしにはデジャビュ(既視感)でしかなかった。そして、何でいまさらこんなことしか言えないのかとも思ったのだ。

 2011年10月末に英国ザ・テレグラフ紙がアサド大統領にインタビューして、その様子を記者はこう書いた。

《アサド大統領のインタビュー当日、担当官がひとりで迎えに来て、彼女と自動車で向かった。会見場に着くと、そこには門がなければ警備員もいない。郊外の別荘のような建物の入り口ホールで大統領はわれわれを待ち迎えてくれた》

 今は引退した米国ABCテレビのバーバラ・ウォルターズ女史は同年12月にインタビューしたあとでこう語った。

《大統領はインタビューを楽しんだようだった。彼はどんな鋭い質問にもたじろがない。インタビューが終わると、微笑を浮かべて挨拶した》

 いずれの記者もアサド大統領が礼儀を重んじ、相手への配慮を怠らず、広壮な建物とは無縁な警備員もいない建物にいることを語る。しかも、2011年でも、激動の3年間を経た2014年でも、記者たちは同大統領を語るにまったく異口同音で、大統領はまったくブレていない。

 わたしは同じ場所で同大統領と私的に1時間半ほど会談したことがある。はなはだ小振りの建物で、執務室には机とソファーがあるだけ。机の上はよく整頓されていた。

 彼は客人の前では決して足を組まない。靴底を客人に向けるのは客人を侮辱するに等しいというベドウィンの教えを守っている。だが、欧米からの来客たちは大統領の前で足を組み、しかも靴底が大統領を向いていても気にしない。彼らはシリアの伝統に無知であり、無関心である。それでいて、声高にシリアを論じ、アサド大統領非難を延々と続けるばかりだ。