経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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今回がこの連載の筆者最終回である。何を書いたらいいのやら。そう悩み始めたところで、ほんの少し前に聞いたある人のある言葉を思い出した。
その人は大相撲の元大関、栃ノ心関である。五月場所が始まって6日目の時点で引退を表明した。そして、9日目にはゲスト解説者としてNHKの放送席に登場。そこで好きな日本語は何かと聞かれて、彼は「じゃあね」だと答えた。言いやすいから、というのがその理由だった。
このセンスはなかなかいいなと、その時、思った。「じゃあね」という別れの挨拶は明るい。軽やかだ。そして、そこには「またね」のニュアンスがある。
栃ノ心さんの「じゃあね」に思いが及んだところで、今度は別の言葉が頭に浮かんだ。イタリア語のアディーオ(addio)、スペイン語のアディオス(adios)、そしてフランス語のアデュー(adieu)である。
ご承知の通り、いずれも「さよなら」の意だ。「じゃあね」である。そして、これらの「じゃあね」はいずれも「神の元へ」を意味する。DioもDiosもDieuも神様だ。「じゃあね。どうぞ神様の御元に行ってね」というわけだ。といっても、何も「天国に昇天しろ」と言っているわけではない。次に会う時まで、神があなたとともにいて下さいますように、という感じである。その底流には、あなたを神様の使者として派遣しますよ、という意味合いもある。
今、世界中で多くの人々が、神の使者が派遣されてくることを待ちわびている。神の使者は、平和の使者でなければならない。そこで思う。広島サミットに集ったG7の面々、そして他の招待国の政治指導者たちには、神の使者としての自覚があるか。自分たちに託されているのが、平和のメッセージだということを、どこまで深く理解し、どこまで真剣に受け止めているか。
「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」が出たことはよかった。だが、自衛のための核保有を否定しなかった。核兵器禁止条約にも言及しなかった。平和の使者としては、いかにも、おっかなびっくりだった。アディーオ! 神の元に戻って出直してくるべし。そう言いたい。皆さん、じゃあね!
浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演
※AERA 2023年6月5日号