狩野探幽(かのうたんゆう)(1602~74)は、五代続く画家の名門に生をうけ、徳川家康の御用(ごよう)をつとめ、秀忠以降、家光、家綱の御用(お抱え)絵師となり、後水尾(ごみずのお)天皇をはじめとする宮廷の愛顧を得て、73歳で亡くなるまで精力的な活動を続けた。江戸城や御所の障壁画から画帖(がちょう)の小さな画面まで、瀟洒(しょうしゃ)な山水画、迫真の肖像画、華麗な歌仙絵、可憐な花鳥画など、どんな絵にも巧みであった。生前から圧倒的な名声を誇ったが、死後も大きな影響力をもち続け、狩野派が江戸時代を通じて幕府御用絵師の地位を守り日本の画壇を牽引する基礎をつくった画家として顕彰されてきた。
本書は、探幽という巨匠の誕生を、画才、社交、組織の三つの面から考える。「探幽を探幽の絵だけで語らないこと」を方針とした。探幽の絵の魅力を他の画家の才能や境遇と比較することで語る、絵を描く以外の活動を含めて探幽の画家人生を考えるということである。
当時の人々を魅了した探幽の絵の特徴は、鑑賞者の五感を刺激し絵と同じ空間に巻き込むようなイリュージョン、淡麗瀟洒な画趣である。それは淡い墨や色、揺れや途切れといったニュアンスをもつ線や面、広い余白を効果的に使うといった、探幽が創始した革新的な様式によって実現された。ニュアンスのある線や面は、鳥であれば鑑賞者に羽毛の感触、鳴き声までも感じさせ、モチーフの存在そのものを再現するかのようである。広い余白はモチーフを包む大気や光となって絵の外へ続き、鑑賞者は絵と同じ空間にいるかの感覚をもつ。襖や屏風の大画面では特にその効果は大きい。紙や絹に墨や絵の具がのる面積は多くないが、豊かな空間が広がっている。探幽の絵はそれ以前の狩野派、あるいは同時期に活動した他の画派とも異なる。両者を比べると、探幽以前の絵はともかく重い。重いのは、墨も色も濃く、モチーフの数も多く、余白が少ないからである。探幽は表現の各所で旧来のものから引き算を行い、軽やかで、華やかだが品の良い画面をつくった。
では、探幽はどのようにして引き算、自己様式にたどりついたのか。幼くして江戸にでて貴顕と交わるなかで顧客の求める絵を探りつつ、大徳寺僧の江月宗玩(こうげつそうがん)、茶人で大名の小堀遠州(こぼりえんしゅう)、幕府御用儒者の林羅山(はやしらざん)など、当時の文化を先導した人々との交友、協働によって、時代の嗜好が淡麗や瀟洒にあることを見定めた。同時に、先行する作品に描法、画題などを学び、時代の嗜好に添うかたちで自己様式を形成していった。結果、生涯にわたって顧客満足度の高い作品を提供し続けることができたのである。徳川政権初期、探幽以外にも多くの画家がいた。土佐派、雲谷(うんこく)派、京狩野(きょうかのう)などである。彼らを抑え圧倒的な勝利を収めたのは、恵まれた出自と画才に加えて、政治と文化に深く密着した活動があったからこそであった。
各種展覧会が盛況とはいえ、日本の古美術と現代人の間には、やはり大きな壁がある。むろん、見た目で楽しめる作品もあるが、やはり大部分は歴史、描かれている内容、作品の機能や鑑賞の場、制作の方法などへの知識がある程度あればより親しめる。そんななか、画家を知ることは、作品との距離を縮める大きな一手である。探幽は、日本美術史上きっての巨匠の一人であり、しかも作品、文献資料に恵まれた稀な存在である。探幽の画才と境遇をあわせて語る本書が、その一手としての役割を果たせれば幸いである。