私自身かつて「アホと戦う最低のアホ」だった。アホと戦う虚しさと無駄さを、心身で実感している身だ。だから、この本の内容にはかなりの自信を持っている。

 大げさに言えば、私の人生における二大バイブルである『孫子の兵法』と『君主論』を現代日本社会対応版に焼き直したものとの自負も多少ある。孫子のエッセンスである「非戦論」と君主論のシニカルなまでの「人間観察術と権力闘争処世術」を“いいとこどり”したような内容といっては言い過ぎか。

 この本は「頭に来てもアホとは戦うな!」という私の一つのツイートから始まった。まさに本書のタイトルである。編集者がこのツイートを見つけ、本にしませんかと声をかけてくれたのである。

 当時の私は、シンガポールへの移住の準備と外国企業の戦略顧問の仕事等で手いっぱいで、本を書く余裕も意思も全くなかった。何冊か本を書いてみたものの、私のような素人にとって一冊の本を書くのは“命を削る”と言えば大げさだが、とにかくとてつもなく辛い作業なのだ。

 なのに、なぜ書いてしまったのか? それは編集者の熱意と、その背景にある日本の風土へ“一石を投じなければ”との思いがそうさせたのである。

 このツイートをしたのが2013年10月9日。その約2週間前の9月22日に「倍返し」で一世を風靡した連続ドラマ『半沢直樹』が最終回を迎え、平成の民放ドラマ歴代最高視聴率を叩き出していた。私はそのドラマをちらりと見たときに「これはいかん」と思っていた。そして思わず世の中に向かってあのツイートを投げかけたのだ。

 何がいかんのか? アホと戦うことがいかんのだ! そんなことをする、いやしなくても考えてイライラしているのはナイーブな(英語本来の子供っぽいという悪い意味で)日本人くらいだ。世界でも倍返しやリベンジがないわけではないが、大半はもっと大人である。

 世界の多くの人たちは、世の中はそもそも不条理であり、力を持つ者の大半は卑怯なアホであることを知っている。確かにそれ自体は許せないものの、そんな奴と戦う“おバカな”ことはしない。卑怯なアホと戦っても、勝てない確率がかなり高く、負けたら憎まれてそれこそ倍返しをくらう。議論や口げんかで勝ったと思っても、やがて権力だけはあるアホの逆襲によりボコボコにされてしまうのだ。

 倍返しなどというものは、日本はもちろん世界中で成功しないからこそドラマのネタになる。たとえ実行しないまでも、倍返しの妄想を抱き、悶々とした結果、心の病を患い、後にそれが本当の病気になってしまう人もいるかもしれない。そんな無駄なことに限られたエネルギーと時間を使っていては、多分一度きりしかない大事な宝物のような人生を謳歌することはできない。残念ながら時間もエネルギーも有限であり、古代ローマの哲学者兼政治家であるセネカもいうように「長い人生もアホな時間の使い方をしているとあっという間に終わる」のだ。

 アホと戦うのをやめてみると、どれだけ人生が楽でその余力で本来の人生の目的を楽しめるか! そして一歩進んでアホのその力を利用して自分の人生を謳歌することができれば、何倍も楽しいことか!

 この本の内容は、アホと戦うアホらしさを自分の経験として伝えるだけではない。処世術の達人たちから学んだ「非戦能力」と「人間観察力」と「処世術」を伝えている。

 特に純情な田舎者である私が大いに悩み苦しんだ永田町での日々は、何にも代えがたい学びの毎日であった。政治家の苦しみは、政策でも議論でもない。オブラートに包んだような戦いもあれば、正面から激突することもある、その権力闘争に身を置いて物事を自分なりに判断して決断していくことにある。“清濁併せ飲む”とはよく言ったものだが、「濁」を飲むのは、私のような人間には非常につらいことであった。しかし今となっては、政治家に限らず、人生を謳歌するためには時として「濁」を飲むことは必要であることを悟った。「清」ばかり追求して、一度しかない人生の幅を狭めてしまい、本当の楽しみを追求しないことは大きな損失だ。清も濁も、宝物のような人生を前にしたら、単なるスパイスのような存在に過ぎないのだ。

 非戦の書であり、シニカルな処世術の書でもあるこの本で一番訴えたかったのは、自分の人生を何より大事にすることだ。たった一度のかけがえのない人生を豊かに謳歌するためには、アホをアホと思ったり、そんなものと戦ったりする時間もエネルギーももったいないのだ。