ふた昔、いや、ひと昔前でも、オジサンと呼ばれる年代の男性が通勤電車で開く本は時代小説が多かった。それも、剣豪小説と呼ばれる男性作家のものばかり。しかし現在、時代小説はもう「男の聖域」を離れ、世代や性別を問わず広い読者層に親しまれるようになった。その功績者は、女性の時代小説作家だと言ってよいだろう。忠義と剣に生きる「おさむらい」に、お色気悪女か純情おぼこといったステレオタイプな女が絡む小説を喜ぶ読者ばかりではない(ドラマの「水戸黄門」に由美かおるの入浴シーンが1回はあるようなヤツですね)。女性時代作家の特色は、今まであまり描かれることのなかった職業や境遇の人々を細やかに語る点である。本書の著者もその一人だ。
著者は今までも、小石川療養所付属薬草園の管理をする草食系の同心や(『柿のへた 御薬園同心水上草介』)、それぞれの思惑を抱いて伊勢参りする女三代など(『お伊勢ものがたり 親子三代道中記』)、そういわれてみれば読んだことがないなと思わせる多彩な人物の物語を紡ぎ出している。語り口は平易で、事件あり人情ありのストーリーは良質なエンターテインメントだが、だまされてはいけない。梶よう子は物語を作るに当たって相当資料を読み込み、準備怠りないからである。さりげなく物語に溶け込ませているから読み流してしまうかもしれないが、小さな部分のリアリティがしっかり考証されているゆえに物語の奥行が深いのである。もちろん、本書も例外ではない。
今回は、「ことり屋」を営むおけいが主人公である。「ことり屋」は店舗を構えて愛玩用の鳥類を販売する商売で、実在のものだ。江戸時代には空前のペットブームが起こり、中でも小鳥は身分の上下を問わず広く愛玩されていた。細川博昭の『大江戸飼い鳥草紙』(吉川弘文館)には、鳥屋の店先で武家の客が店主と相談している図が見える。鳥屋の隣には、購った鳥を入れるための籠を売る店がある。行方不明の夫の後を継いでけなげに鳥屋を営むおけいの店の春夏秋冬を中心に話が進む本書でも、こうした史実はきちんと踏まえられている。だが、物語の展開にうまく関連させているので、偉そうにうんちくを垂れるふうにはならないのである。著者の美点は、こうした資料の使い方のうまさにある。
本書の読みどころは、おけいをめぐって登場する個性的な4人の男の人物造形である。まずは、実際に小鳥好きだった戯作作者の曲亭馬琴だ。馬琴が残した日記によると、「かなありや」(カナリア)をはじめ、和鳥から舶来種まで約70羽もの小鳥を飼育していたという。気むずかしいことで有名な馬琴だが、「女の細腕」で店を営むおけいに該博な知識でアドバイスを与え、父性的な人物としていい味を出している。ちなみに、某女料理人が主人公の人気時代小説にも馬琴がモデルとおぼしき人物が登場するが、こちらもなかなかいい感じである。馬琴先生、隅に置けませんぜ。
おけいにはやがて「千鳥の布根付」を縁としてほのかに思う人ができる。夫とはタイプの異なる番所の役人・永瀬である。世間のことを知り尽くした大人の恋も7話の連作とともに進行し、最終話まで目が離せない。おけいの夫の影が次第に濃くなってゆく展開も、謎解きの楽しみが味わえる。
え? 男は3人しかいないって? いやいや、夫の物まねでおけいの心を癒やす九官鳥の「月丸」がいる(たぶんオス)。九官鳥も江戸時代に海外から輸入された珍鳥の一つである。この月丸がおけいのよき相棒となって無条件にかわいいのだが、鳥屋とはいうまでもなく生き物を売る商売である。売られた鳥が一生幸せに暮らせるとは限らない。人間から餌をもらうことでしか生きてゆけない籠の鳥は、空に放たれても決して「自由」にはなれないのだ。本書には、夫・羽吉や馬琴の言葉を借りて人間の残酷さと鳥への慈しみが繰り返し語られる。おけいが鳥たちを「この子」と呼ぶのも印象的だ。そこには、「生」に真摯に立ち向かおうとする姿が表れている。
本書は鳥を発端に起こる日常の謎をおけいが解く、というミステリ仕立てになっているが、長編として読めば本当の謎はおけいの夫の行方に行き着く。3年もの夫の失踪に揺れるおけいの心が四季折々の風物とともに描かれ、最終話ではおけいがある決断をするに至る。胸が青く光る鷺を求めて行方をくらました羽吉と、青い鳥はすぐ近くにいたことを知るおけい。夫の補助的立場であったおけいが、一人前の「ことり屋」として成長してゆく物語でもあるのだ。次にはどんなひとが描き出されるのだろうか。新刊が楽しみな作者がまた一人ふえた。