『Why Jazz Happened』By Marc Myers
『Why Jazz Happened』By Marc Myers

■本書イントロダクションより:世界初のジャズ録音

 ジャズ・レコーディングの歴史は、1917年2月26日まで辿ることができる。その月曜日、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ(Jass)・バンドのメンバーが、ニューヨークの38丁目西46番地の貨物用エレベーターに乗りこみ、12階へと上がった。そこには、ヴィクター・トーキング・マシン・カンパニーが数週間前に開設した、新しいレコーディング・スタジオがあった。

 ニューオリンズ出身の白人からなるクインテットは、彼らの楽器を組み立て、当時マイクロフォンとして役立てた長いメタル・ホーンに向かって、≪ディキシーランド・ジャズ・バンド・ワン・ステップ≫と≪リヴァリー・ステイブル・ブルース≫を吹き込んだ。その2曲が、78回転のSP(シングル)盤の両面に収録され、数週間後にリリースされると、バンドの高度にシンコペートされ、多少狂おしい“ディキシーランド”のフォックス・トロットは、たちまち評判になった。

 そのレコードは、アメリカが第一次世界大戦に参戦した直後に、ミュージック・ストアで販売され、新聞には「ブラス・バンドが狂乱する」という広告が掲載された。そしてオペラ界の大スター、エンリコ・カルーソーやマーチ王、ジョン・フィリップ・スーザのレコードに匹敵する売れ行きをみせた。

 だが、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドは、名を冠するほど、“オリジナル”ではなかった。そのアップ・テンポの音楽スタイルは、ニューオリンズの黒人ミュージシャンが1906年にすでに、ラグタイムのインストの副産物として生み出していた。 

 また、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドのメンバーは全員、ニューオリンズ出身の白人であり、なかには町のマーチング・バンドで音楽活動を始めたメンバーもいたが、1916年初期のアンサンブルは、シカゴの進取的なカフェのオーナー、ハリー・ジェイムズが、思いつきによって構成したものだった。ジェイムズは、プロボクシングの試合を見るため、カリフォルニアのクレセント・シティに滞在する間、彼らの演奏を聴きスカウトしたのである。

 シカゴは、1916年にはすでに音楽の中心だった。ディキシーランドの分野では、トム・ブラウンズ・バンドが、シカゴに進出し、かなりの成功を収めていた。さらに南部のダンスが町のもうひとつの呼び物になっていたため、活躍の場は大いにあるように思われた。ジェイムズが契約を交わしたミュージシャンたちは、1916年3月に「シラーズ・カフェ」でシカゴ・デビューを果たした。彼らはその時、ドラマー、ジョニー・ステインにちなみ、ステインズ・ディキシー・ジャズ・バンドと名乗っていた。

 バンドはその後、何度か名を変え、メンバーも入れ替わったが、最終的にオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドと称し、他のグループと一線を画した。新しいバンド名は、多少看板倒れではあったものの、エンターテインメントの盛んな町で、彼らの存在感を助長した。

 1916年の末期、黒人男性シンガー、アル・ジョンスンが、バンドに注目する。ジョンスンは、彼のニューヨークのエージェント、マックス・ハートに電報を打ち、バンドを熱烈に推薦した。ハートは、マンハッタンのコロンバス・サークルに近いライセンウィーバー・ビルディングのパラダイス・ボールルームに、バンドを出演させた。

 オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドは、1917年1月にニューヨークで公演を開始した。その新しいスタイルの活気あふれるダンス・ミュージックは、時代を完璧に捉えているように思われた。バンドは、安定したワン・トゥー・ビートをバックに、自由奔放に演奏した。彼らのノートは、組織的なカオスの中で行き交った。あたかも無数の自動車が、急ハンドルを切り、路上を擦れ違うように。その熱狂的な音楽は、ダンスに興じる人々の戦前における不安を反映すると同時に、新聞の見出しによって日々味わう暗澹たる思いをも解放したのである。[次回6/23(月)更新予定]