10の物語があり、10人の主人公がいる。

 保育士の男性と元恋人の物語。工場に勤める気弱な青年のほのかな片思い。会社の嫌われ者の意外な面を知って驚くOL。息子の進学を心配する母親。娘の不登校を気にかける父親。意識の高い青年。夫の行動に不審を抱く妻。その夫。家族も職も失った男。そして海外で暮らす若者が出会った日本人女性。

 環境の違いこそあれ、つまりは市井の、おおむね平凡な人ばかりだ。夫婦でそれぞれ主人公を務める話もあるが、それ以外は基本的に別個の物語と言っていい。彼らの生活の断片が順に紡がれる、連作短編集である。

 では平凡な物語なのか。そんなわけはない。貫井徳郎が何の企みもなしにそんな話を書くはずがない。

 本書にはひとつ、平凡ではないことがある。それは物語の舞台だ。彼らが暮らしているのは、車でビルに突っ込んだり雑踏でナイフを振り回したりという無差別殺人が頻繁に起きる日本なのである。犯人たちの間に直接の繋がりはなく、規則性もない。頻発する無差別殺傷事件はいつしか《小口テロ》と呼ばれるようになった、そんな社会。

 この設定に身を乗り出してしまった。

 つまり先にあげた10の「平凡な人々の物語」は――ラブストーリーも、親子の物語も、夫婦の問題も、すべて日常的にテロが起きる社会での話なのだ。これだけで見方が大きく変わる。これが本書のキモである。

 では《小口テロ》とは何なのか。

《小口テロ》を起こすのは、懸命に働いてもその日を生きていくのがやっとの、いわゆる貧困層に属する人々である。出口の見えない閉塞感の中で、彼らはその原因を社会に求めた。冷淡な社会への抗議として無差別殺人に走る者たちが続出したのである。誰も幸せになれない社会への抵抗だと。受け入れられないなら壊してしまえと。彼らは自らを抗議する者――《レジスタント》と称している。

 日常的に《小口テロ》が起きる社会なんて、まるで近未来SFのような設定だな。そう思って読み始めた。けれど次第に背筋が伸びて来る。SFじゃない。ここに描かれているのはまぎれもない現代の日本なのである。

 たとえば、主人公がテロの現場に居合わせ助けを求めたとき、周囲の人は動きもせずスマホで写真を撮っているという場面がある。別の話では、体にも心にも負担が大きい労働を毎日こなしているのに、給料は上がらず正社員にもなれず、将来の見通しがまるで立たない若者が登場する。他者への無関心と排斥、ワーキングプア、格差――。

 絵空事じゃない。これは現実の話なのだ。ここに登場するエピソードはどれも、今まさに日本で起きていることばかりなのだ。そして思い出す。秋葉原無差別殺傷事件。今年の2月には、名古屋で暴走車が歩行者に突っ込んだ。薬物の影響でも病気の発作でもなく、もって行き場のない感情を無差別の他者に向けた事件は既に起きている。

 本書の《レジスタント》が無差別殺傷事件に及ぶのは、それが即ち社会だからである。社会とは不特定多数の集合体なのだから。

 つまり本書の10の物語はどれも、そんな社会を構成するひとりひとりの物語なのだ。冒頭で私は主人公たちをざっと紹介したが、別の側面から彼らを順不同で紹介するとこうなる。

 大事な人をテロで失った者。テロを起こす犯人。テロを取り締まる公安警察官。テロに賛同はしないが今の世は正すべきと考えている人。テロを煽動する者。テロリストを自助努力の足りない負け組と軽蔑する人。テロにも社会にもまったく無関心な人――と。

 そして、ぎくりとする。

 これは自分だ、と思える人物がいるからだ。主人公とは限らない。脇役に自分を見つけることもある。それが誰かは人によって違うだろうが、必ずいる。私は「ぎくり」を三度味わった。小さな「ぎくり」は無数にあった。今の社会のありように対し、自分が心の底で感じていたことは、自分の本音はこれだ、この人は私だ、と突きつけられた。

 恐ろしかった。

 これこそが本書で著者が意図したことであり、『私に似た人』という本書のタイトルの意味なのだ。誰に共感し、誰を否定し、そして誰に似ているかで、自分が測られる。試される。これはそんな小説だ。

 本書は確かに現代日本の病理を描いている。しかし決して社会というとらえどころのないものを糾弾しているのではない。人を抉っている小説なのである。この中の誰かに似ている、あなたを。