この本の魅力は、まずその語り口のおもしろさにある。それは「話芸」といった格式張ったものではなく、「話術」といった実務的なものでもない。自然体で融通無碍に、話すことを純粋に楽しんでいる。だから、ぼくたち聞き手には、音楽のように心地良い。造語してみれば「話楽」とでもいったところか。

 安野先生の話を最初に聴いたのは、ぼくが小学5年生の時、図工の授業だった。先生が話し始めると、ぼくたち生徒は一言も聞きのがすまいと耳をそばだて、愉快なくだりにさしかかると思いっきり大声で笑った。

 たまに、私語をかわしている生徒がいると、先生はふいに口を閉ざしてしまう。ぼくたちが、「話の続きやってよ!」と叫ぶと、先生は、「聴きたくない人がいるみたいだから、やめた」と授業を始めようとする。そこで、ぼくたちはお喋りしている奴を黙らせ、先生は再び話し始めるのだった。

 編集者になって安野先生に再会し、ちくま文庫のフォーマット・デザインをはじめ、いろんな仕事をお願いした。その打ち合わせや色校正などのためにいつもの喫茶店におもむく。仕事の話はあっという間に終わり、先生の話に笑い転げていると、他社の編集者がやってくる。「ちょっと待ってて」と言って、別の席に陣取る彼らをひとしきり笑わせたかと思うと、ぼくたちの席に戻ってきて、さっきの続きを話してくれるのだった。

 思い返すと、ただひたすら笑っていたような記憶しかない。でも、こういう話の中から、ぼくの編集者生活最大のヒット『ちくま文学の森』が生まれたのだから、驚きである。

 安野先生は頭の回転が速く、せっかちなので、思いついたことをどんどん話の中に取り入れていく。このテンポの速さに、慣れない編集者は戸惑うようだが、なじんでしまうと、そのスピードと自在さは、とても心地よい。それは、この本の記述についても同じだ。

 さらに、この本の魅力について語るとすれば、登場する人たちの豪華な顔ぶれとバラエティの豊かさだろう。画家、彫刻家がいて、作曲家、歌手、バイオリニストがいる。作家、詩人、歌人、エッセイストがいれば、仏文学者、独文学者もいる。哲学者、心理学者、数学者もいるし、生物学者、獣医もいる。さらには、編集者、TVディレクターから、司会者、男優、女優に到るまで多士多彩である。

 この驚くべき幅の広さは、旺盛な知識欲、限りない好奇心、類(たぐい)まれな遊び心といった安野先生の個性から発している。ここに登場する人は、それぞれ仕事や表現で、何かを成し遂げている達人揃いだ。先生は、そういう人たちの人柄や才能、考え方などに深い敬意を抱き、まっすぐに向き合っていく。まるで、ひとりひとりに恋するがごとくに。

 ところで、先生の絵本は老若男女の読者に愛されているが、とりわけ女性ファンが多いことは周知の事実だ。それなのに、この本に登場する女性があまり多くないのはなぜだろう。この本を読んでいくと、安野先生は「古風な人間がもつシャイな性癖」があると書いている。ある女性(とくに美人)と「仲がいいそうですね」と聞かれると、「そんな人いたかな」とわざととぼけるという。なるほど、先生はもてることをひけらかしたくないのだろうか。

 しかし、ことはそう簡単にはいかない。もともとシャイな性質なので、ひとりであれこれ考えているうちに、持ち前の空想癖が活躍し始める。その一端を思わず口に出してしまい、相手をキョトンとさせることもあるようだ。

 高峰秀子さんと京都法然院あたりを歩いていたとき、腕をとられて「ぼくは同級生から殺される」と口走り、「なに言ってんのかわからないわ」と言われてしまう。また、檀ふみさんと津和野で桜を眺めながら、つのる思いをこめて「今日のように心にしみるサクラをみたのははじめて」と言うのだが「ソウデスカ」で終わってしまう。

 安野先生は、知的で美しい女性に恋い焦がれる気持ちを人一倍、いや人百倍ぐらいお持ちなのだろう。しかし、持って生まれたシャイな性質なので、そういう気持ちを抑え込んできた。そのかわりに持ち前の空想癖をフル回転させて、華麗なロマンスを開花させてきたのだろう。

 大岡信さんの章に、岡倉天心とインドの女性との恋文の話がある。このふたりは恋文だけのつきあいで「世紀のプラトニックラブ」だったと聞いて、「この本の内容に恥じない人物」すなわち自分こそが装丁するにふさわしいと力説している。色自慢する人はいくらもいるが禁欲自慢する人は珍しい。そういうところがいかにも先生らしい。

 この本に登場した人たちはもちろん、生徒、編集者はじめ、みんなが「安野先生に会えてよかった」と思っていることだろう。