『かんちがい音楽評論[JAZZ編]』中山 康樹
『かんちがい音楽評論[JAZZ編]』中山 康樹
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『ジャズのある風景』山中 千尋
『ジャズのある風景』山中 千尋

 ミュージシャンには、ユニークなことを書く人が多い。しかし書く対象が、同業のミュージシャンやジャズの歴史や諸々に関したこととなると、そのユニークさの根源が、たんなる事実誤認やカンチガイに起因する場合が圧倒的多数を占めている。読者は、まさか筆者が「1+1」を「5」とカンチガイした上で論を進めているとは思わないから、それはそれは「ユニークな視点・指摘」として好意的に受け入れられる。補足すれば、書き手としてのミュージシャンによる事実誤認は、どういうわけか「えっ!そんなことも知らないの!?」といった類が多い。たとえば「ジョン・レノンはローリング・ストーンズのメンバーだった」的なものとか。
 基本的にミュージシャンが書くものは、そのミュージシャンのファンが無批判に受け入れる、よってカンチガイがあったとしても笑って許され、そもそもそのカンチガイに気づくような読者は最初から含まれていないか、圧倒的に少ない。つまりそこでは、書き手となったミュージシャンはいとも易々と完全犯罪を遂行することができる。

 ぼくと山中千尋がジャズジャパン誌の同じコーナーで連載していたころ、ある回の彼女の原稿に、次のような一文があった(以下『ジャズのある風景』から抜粋)。
 「1969年夏、伝説的な《ウッドストック・フェスティバル》の3日間を予期するかのように録音された、ゲイリー・バートンとキース・ジャレットの『Throb』は、まさに奇跡の大名盤と言えるでしょう。」
 音楽評論家なら許されないミスだが、さすがはミュージシャン、これでもOKなのだと感心したが、まあ間違いは正しておくかとの軽い気持ちから次号で指摘した。どう書いたかは失念したが、そもそもゲイリー・バートンとキース・ジャレットに『スロッブ』というアルバムはなく、しかし『ゲイリー・バートンとキース・ジャレット』というアルバムはあるので、たぶんそちらとカンチガイしているのだろう、しかしそうだとするなら同作の録音はウッドストック後、したがって「予期するかのように」もなにもなく、というようなことを書いた。

 次号で彼女が寄せたのは、録音年月日の問題であるにもかかわらず、自分が所持しているCDの「仕様」についての説明と、間違いを指摘するならこうすべきであるという、思わず首をひねりたくなるような「反論」だった。
 間違いを指摘されることが、そんなに不名誉で恥ずかしいことだろうか。間違いを指摘するなら、こう指摘すべきであるなどという言い分が成り立つとでもいうのだろうか。逆ギレとは、こういうことをいうのかもしれない。
 彼女の弁明を要約すれば、自分がもっているのは『ゲイリー・バートンとキース・ジャレット』及び『スロッブ』がいっしょになったCD(2イン1)で、だからああいうふうな書き方になったのです、ということのようではある。ぼくがもっているのも同様の2イン1だが、そのような間違いが起こりようがないくらい詳細なクレジットが掲載され、録音年月日もしっかり記されている。
 そして彼女は、間違いを指摘するなら、「『ゲイリー・バートンとキース・ジャレット』の中の<Throb>もしくは、ゲイリー・バートンの<Throb>と書け、として頂ければ幸いです」としているが、ぼくを含む読者には、彼女がどちらのアルバムのことを指して言っているのかがわからない。したがって具体的な指摘のしようなどないのだが、彼女は気づいていないのか、あるいは気づかないフリをしているのか、奇妙な印象を受けたことを覚えている。
 ぼくがさらに次号で反論したかといえばそうではなく、どうやら話をすり替える人らしいというふうに感じたので、なにも返さないことにした。ひとことぼくの感想をつけ加えれば、『ゲイリー・バートンとキース・ジャレット』は「奇跡の大名盤」だが、『スロッブ』はそこまでのモノではない。

 こうしてこの件は終わったはずだったが、今回彼女は、その自分が間違った原稿を再録した上で、「補注」として、しかもほとんど1ページを費やして、再度弁明に情熱を傾けている。
 これを読んだとき、「ああ読者がかわいそうだな」と思ったが、常識的に考えれば、本人にとって間違いとはいえなくても、間違いであるかのような印象を与えた文章については、再録時に部分的に書き直すだろう。しかもこの件に関しては、間違いを指摘した人間に「このように指摘すべきである」と説く前に、自分が「どのように書くべきだったか」という結論が出ている。それに従えばいいだけのことではないか。
 しかし彼女は、あえて原文を載せ、さらには別枠を設けてナカヤマから指摘があったことを取り上げ、同じ言い分を、さらに強調してくり返している。自分の文章のわずか1行を改訂すればすむものを。

 結局は、文章を書く人間の責任感、姿勢、矜持といったことに尽きるのだろうと思う。それはミュージシャンが本業である書き手も例外ではない。本稿「その1」でも書いたが、言いたいことがあれば正々堂々と書けばいいだけのことだろう。再録時にこっそり悪口を書き足す、あるいは無為にページを費やし、読者に犠牲を強いるかたちで自らの低次元のエゴを押し通す等、文章を書く人間として何か重要なものを欠いていると思わざるをえない。
 拙著『かんちがい音楽評論』にカチンときたが、かといって反論できず、とはいうものの無視することもできず、じっと仕返しの機会を待っていたとしたら、いや今回の一連の行為はそのようにしか受け取れないのだが、山中千尋という人は、なんと「かわいそうな人」なのだろう。[次回10月14日(月)更新予定]