
上皇ご夫妻はともに戦時下での疎開を経験している。特に、上皇さまは学習院初等科時代に3度の疎開を経験し、空襲で焼けた宮殿を目の当たりにした。敗戦によって皇室の存続が危ぶまれたことも、身をもって知っている。
そのなかで、「人間宣言」を行った昭和天皇は、神話と伝説に基づく神であることを否定し、全国各地を巡幸した。人々と触れ合う中で、「象徴」という新たな天皇像の模索を始めた。
そうした昭和天皇の姿に学んできた平成の明仁天皇と皇后美智子さまは、集まった人たちの目を見て手を握り、言葉を交わし、信頼を築きあげてきた。
そして学生時代に英国留学から帰国した浩宮さまは、記者会見で「日本の警察は英国に比べて警備が過剰」と話し、警備の緩和への期待をのぞかせた。
令和の天皇陛下と皇后雅子さまも、被災地では床にひざをつき、被災者と目を合わせて耳を傾け、静養先では出迎えた人たちと顔を寄せて会話を続けてきた。
そうした天皇や皇族方の希望をかなえようと、憎まれ役になったのが、そばに仕える側近たちだ。触れ合いの妨げにならないよう目立たない警備を、と口出しをしてくる側近は、警備当局から常に睨まれていた。
「警備側からすると、万が一の場合、人との距離が近いほど護衛対象である天皇や皇族方を十分にお守りすることが難しくなる。当然といえば当然です」
国内はまだいい。頭を悩ませたのが海外訪問時だった――。(AERA dot.編集部・永井貴子)
※記事の続きは後編<<「女王自ら天皇の「盾」となった欧州王室と、「手榴弾は投げ返せ」の米国 日本皇室への警備の差>>に続く