1927年、韓国慶尚北道大邱に生まれた森崎和江は、戦後は福岡県に居を定め、1958年、評論家の谷川雁、ルポライターの上野英信とともに文芸誌『サークル村』を創刊します。『サークル村』は炭鉱労働者の連帯をめざした雑誌でしたが、多くの労働者・農民・主婦などが参加し、およそ3年という活動期間にもかかわらず、日本の思想界に大きな影響を与えました。『苦海浄土――わが水俣病』(1969年)で知られる石牟礼道子も『サークル村』の同人です。
しかし、森崎和江は『サークル村』の活動に飽き足らなかった。そこには労働者の視点しかなく(もっといえは男性目線で塗り固められており)、森崎が強くこだわる「性」や「植民地」の問題が入り込む余地はなかったためでした。
『サークル村』創刊の翌年に森崎は個人誌『無名通信』を創刊しますが、これは女性の自立と連帯を模索したミニコミでしたし、デビュー作『まっくら――女坑夫からの聞き書き』(1961年)は炭鉱で働く女性たちの声を集めた作品でした。以後も森崎は筑豊の炭鉱町に住み続け、『第三の性――はるかなるエロス』(1965年)、『ははのくにとの幻想婚』(1970年)、『闘いとエロス』(同年)などの問題作を次々に放って、読者(とりわけ迷える女性たち)の心を鷲づかみにしていきます。
1960年代後半から70年代は、ベトナム戦争や公害をキッカケに、近代を問い直す動きがいっせいに巻き起こった時代です。ウーマンリブ運動、女性史ブーム、オーラルヒストリー(市井の人々の声を中心にした歴史)の発見。いずれも70年代の重要なムーブメントでしたが、森崎和江の仕事なくしてこうした達成もなかっただろうと私は思います。フェミニズムという語もジェンダーやセクシュアリティという概念も未知だった時代に、あるいはエスニシティ(民族的なアイデンティティ)やポスト・コロニアリズム(植民地の視点からの歴史の問い直し)といった研究ジャンルが立ち上がる以前に、誰よりも早く「性」や「植民地」を意識化し、作品化したのが、森崎和江だったのです。