夏の甲子園大会が8月6日に開幕するが、NPB12球団の監督たちも、高校球児時代には“聖地”を目指していた。
【写真】ほとんど変わってない? 高校時代の楽天・石井一久監督
PL学園主将時代の1987年に春夏連覇を達成した中日・立浪和義監督や東海大相模時代に春夏計4度甲子園に出場した巨人・原辰徳監督の活躍ぶりは有名だが、ほかの10人の監督たちはどんな成績を残したのか、その足跡を振り返ってみよう。
まずは甲子園出場組から。ソフトバンク・藤本博史監督は、天理2年の80年夏に熊本工戦で先制の2点タイムリー二塁打を放つなど、4番打者として4強入りに貢献した。
雨中の“泥試合”となった準決勝の横浜戦は、1対0とリードの8回2死、ぬかるんだグラウンドに転がった三ゴロをファウルと思い、スタートが遅れた藤本のお手玉をきっかけに、一気にたたみかけられ、痛恨の逆転負け。VTRでは捕球前にファウルになっていたので、判定の不運もあった。
同年の天理は主力6人が2年生で、新チームは全国制覇も期待されたが、秋の県大会優勝直後に不祥事が明るみになり、1年間出場停止に。
だが、藤本はじめ3人がプロ入りするなど、戦力の充実ぶりから、翌年夏の優勝校・報徳学園より強かったとする声も多く、マニアックなファンの間で“幻最強”と呼ばれている。
国学院久我山時代のロッテ・井口資仁監督も、2年夏の91年に甲子園に3番ショートとして出場。1回戦の池田戦は、0対4の劣勢から、8回に追いついて延長戦へ。だが、10回に2つの悪送球で決勝点を許し、無念の初戦敗退。井口は4打席目に中前安打を記録し、3打数1安打1死球だった。
翌年夏、井口は西東京大会で準々決勝まで24打数11安打5打点と5割近い打率を残し、準決勝の堀越戦でも8回の4打席目に自らの安打と二盗でチャンスをつくるも、本塁は遠く、0対1で敗れ去った。
広島工時代の86年に背番号10の控え投手として春夏連続で甲子園に出場したのが、ヤクルト・高津臣吾監督だ。