阿部和重さん(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃)
阿部和重さん(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃)

 その成功体験があったので、雑誌『ダ・ヴィンチ』にA.B.C.-Zについての短編を書くことなったときは、絶対にハズせないという緊張感もありました。以前、メンバーの戸塚祥太さんと対談させてもらった縁もありましたし、気合いを入れて書いたのですが、そのときもやはりファンの方からの好意的な感想が数多く寄せられた。SNSという投稿の場があることで、リアルタイムで反応を感じられることは、小説家にとって大きな変化ですね。

■「一貫したテーマがあるとすれば“情報”」

――『Deluxe Edition』を発表した10数年前に比べ、現在ではSNSが広く浸透しています。そのことは小説を書くうえでどんな影響がありますか?

 自分にとっての一貫したテーマがあるとすれば“情報”です。専門学校で映画の勉強をしていたこともあり、小説と並行して映画評論も書いてきたのですが、その過程で考えた映像表現にまつわる問題も、作品の材料にしています。1994年に小説家としてデビューして以来、時事や風俗を題材にすることもたしかに多かったのですが、根幹にあるのはやはり“情報”だと言えます。デビュー作『アメリカの夜』は、既存の映画や小説などを引用し、他人が書いた言葉を組み合わせて物語を作りましたが、その方法は情報社会の仕組みと親和性が高かった。インターネットのハイブリッドな情報空間も基本的にそういうもので成り立っていますし、ありふれたフレーズやクリシェを異質な文脈にくっつけたりして、新たな意味づけを試みることなどに特に関心があった、というわけです。

 映画評論を書く中で“情報”の問題に迫るきっかけとなったのは、モキュメンタリーなどと言われることもある疑似ドキュメンタリー形式(ドキュメンタリーの手法を用いて、事実であるかのように表現されたフィクション作品。また、その手法。フェイクドキュメンタリー)の批判的考察でした。ざっくり言えば、世界大戦を経て新たなリアリズム形式の模索に向かった映画は、審美性より迫真性に優位を置く記録映画的な撮影技法を劇映画に取り入れていったわけですが、90年代以降はそれが劇的な効果を高める演出手法として定着し、リアリズムの転倒を招いた。簡単に言うと「荒唐無稽な内容であっても、ニュース映画っぽく撮ればリアルに伝わる」ということなのですが、虚実の狭間に一線を引かず無理筋な主張を通す創作態度は倫理的にまずいだろうと考え、わたくしはくりかえし批判を書きました。“ないこと”を“あること”に出来てしまうという意味では、近年のポスト・トゥルース問題ともつながっている。映画作家たちはそのことに自覚的でなければならないと、僭越ながら孤独に呼びかけていたのですが、あいにくさっぱり議論が広がらなかった。

 90年代の同時期、テレビのリアリティーショーがブームになったことも無関係ではありません。ドキュメンタリー風の見世物と言えるリアリティーショーにも台本があり、制作陣の意図によって編集され、ストーリーが組み立てられているわけです。それをリアルだと思い込み、バッシングで自殺者が出たり海外では出演者が殺人事件を起こしてしまうなど、問題が続出していった。これも実作者らが虚実の曖昧化を推し進めすぎた弊害と言えるわけですが、いずれにせよ、それが現在のSNS文化にも直結しているという歴史認識があるんです。

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阿部さん自身の作風の変化