3・11から6年が経過しました。自身も被災者ですが、被災地の全体の状況を見るため、岩手県久慈市から福島県いわき市にかけての海岸線は、自家用車ですべて走り通しました。今回はこれまで自分が被災地で撮影した写真のなかから印象の強かったものをいくつかご紹介します。

「岩手県陸前高田市・旧下宿定住促進住宅」

一枚目は岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市に震災遺構として今も残る旧下宿定住促進住宅(撮影は2014年9月・敷地内は立ち入り禁止)です。今回の震災の津波の恐ろしさを最も端的に現しているといってよいでしょう。海岸線にほど近い場所にありますが、5階建て集合住宅の4階まで破壊の跡が残っています。

「宮城県女川町・江島共済会館」

二枚目は宮城県女川町にあった江島共済会館(撮影は2013年5月)です。津波の引き波は鉄筋コンクリート4階建てのビルを基礎ごと倒しました。これは津波の被災史上はじめてのことで学術的にも注目されましたが、すでに解体されています。

自然を正しく恐れる

6年前の当日は大津波警報発表後、段階的に津波の高さの予想が変更され、最終的には青森県太平洋沿岸から千葉県九十九里外房は「10m以上」となりました。ただ、実際にこれほどの巨大津波が襲うとは、事前に想像できた人はいたでしょうか。否、ほとんどいないと思います。想像が出来なければ避難行動は遅れます。避難が遅れたらこれだけの巨大津波に人間は太刀打ちできません。
震災の記憶の風化が言われて久しいですが、わが国では南海トラフ周辺など、「次の」巨大地震・津波の発生が懸念されています。このような写真を改めて見ることで自然を正しく恐れ、いざという時に率先して「命を守る」行動につなげていただきたいと思います。

次の世代に伝える責任

最後は岩手県宮古市重茂(おもえ)姉吉地区にある石碑(2014年11月撮影)です。1933(昭和8)年の昭和三陸大津波のあと建立されたものです。
ご存知の方も多いと思いますが碑文を紹介いたします。
高き住居は児孫に和楽
想へ惨禍の大津浪
此処より下に家を建てるな
明治廿九年にも昭和八年にも
津浪はここまで来て部落は全滅し
生存者僅かに前に二人、後に四人のみ
幾歳経るとも要心あれ
先人の伝承を守り、この集落では犠牲者を出しませんでした。悲劇が繰り返されることのないよう、次の世代に伝えるのがこの時代を生きた私たちの責任ではないでしょうか。