その人は30代中盤の女性でした。夫と小さな子の世話を熱心にしている人で、暇さえあれば庭をせっせと手入れし、私たち以外の近所の人とはうまくいっているようでした。私たちが出ていかざるを得なくなった街は、東京都港区内の洗練された家が立ち並ぶ、国際色もまぁまぁ豊かな優雅な住宅街でした。ちなみに、これは21世紀に入ってだいぶ経ったころのお話です。それでもこういうことは起きるのか!という衝撃を胸に、私たちは逃げる選択をしたものです。
でも考えてみれば、隣人からの視線に怯え、他人からの嫌がらせに神経を尖らせながら、安心、安全を求めて転々とさせられるのがマイノリティーが強いられてきた生き方であるかもしれません。悔しいです。荒井氏がうっかり漏らした“本音”に、私たちはいつまで怯えなくてはいけないのか。なぜいつも“こちら側”が逃げることで、社会は“変わらない”という物語を見せてあげなければいけないのか。あの日、隣人に「出てけ」と言われたとき、私はいったいどうすればよかったのか……今でも答えは出ないのです。
2019年に性暴力に抗議するフラワーデモを呼びかけて以来、毎月11日に一度も休むことなく、声をあげ続けてきました。先日も、極寒の中、東京駅前で行われたフラワーデモには50人近くが集まり、10人近くの人がスピーチをしてくれました。その中に、高校生の女性参加者がいました。学校で男性教師に性的なからかいをされたこと、そのことに抗議しても他の教師も含め理解が足らず、ようやく受けた謝罪は一方的で中途半端のまま、“男性教師が謝ったのだから”……と、意味不明な理由で強引に「終わらせられた」ことの悔しさを語ってくれました。
そういう話を、フラワーデモを通して、いくつもいくつもいくつも聞いてきました。最も安全で、安心であるべきはずの、家、学校、職場、通学・通勤路での性被害に、どれだけの人が傷ついてきたことか。なぜ私たちは最低限の安全すらも、祈るように求めなければいけないような状況にあるのでしょう。