あの原発事故から9年がたつ。自主避難者は、今も全国に1万5千人近くいる。一方的な線引きで「区域外」とされ、生活を破壊された。今も先が見えない。自主避難者たちの現状を取材したAERA 2020年3月9日号の記事を紹介する。
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1月下旬、東京高裁前でメガホンを手に支援者らとともに訴える男性がいた。鴨下祐也さん(51)だ。
「私たちは、東京電力福島第一原発の事故により福島から東京に避難してきました。放射能による被害は、区域の中も外も関係ありません」
東京理科大学大学院で基礎工学を学んだ工学博士。大学院修了後は、福島県いわき市にある国立福島工業高等専門学校の准教授として働きながら、妻(49)と当時8歳と3歳だった2人の息子の家族4人で、同市で暮らしていた。
だが、2011年3月11日。この日を境に人生は一変した。
自宅は第一原発から南に約50キロ。地震による大きな揺れから原発事故による放射能の危険性を感じ翌12日早朝、家族を車に乗せ妻の実家のある横浜市へ向かった。妻の実家は手狭で長居できず、都内の避難所を転々とした。11年8月、「みなし仮設住宅」になっている旧公務員宿舎都営住宅に入れた。築50年近い建物で、入り口や窓はベニヤ板で塞がれガス管もサビついていたが、やっとたどり着いた、落ち着ける「家」だった。
しかし、いわき市は避難指示区域外。鴨下さん一家は「自主避難者」とされた。国からの賠償は、大人1人当たり8万円。「バカにしているのか」。そう思い受け取らなかった。
震災から1年半後に福島高専を退職。今は都内の大学で非常勤講師を務めながら、何とか生計を立てているという。
13年3月、全国各地の避難者ら計1650人が、国と東電に放射能汚染で平穏に暮らす権利を侵害されたとして、総額約53億6千万円の損害賠償を求める訴訟を東京、千葉、福島の各地裁で一斉に起こした。鴨下さんは17世帯計47人が原告となった東京訴訟原告団団長となった。