それでも松谷さんは、街頭でちらしを配ることよりも店内での接客のほうがきつい、と話す。

「店内の接客は、商品の説明や会計もあって複雑です。でも、街頭の仕事は同じことの繰り返しです。お客さんに声をかけられたら、ちらし配りはいったんおいて、そのまま声をかけてきた人の対応に集中しても支障がありません。気を取られたら取られたでいい。だから、私でも続けられるんです」

 松谷さんは2017年12月、発達障害のADHD(注意欠如・多動性障害)とASD(自閉スペクトラム)の診断を受けた。32歳のときだ。

「これまでいろんな仕事をしてきましたが、基本的に作業が遅くて失敗しやすいので、周りの人が徐々にいらいらしてきます。そうなると、居づらくなって……」

 松谷さんは30を超える過去の仕事歴と、障害を受け入れるまでの長い道のりを語り始めた。

 学校では小1から中2までいじめられた。

「死ね」

「うざい」

 同級生から突然浴びせられる言葉の暴力は日常茶飯事だった。松谷さんは他人を見るような冷静さで、当時の自分をこう分析する。

「目立つんでしょうね。言動や動作が人と違う感じがするんで」

 気が付けば、クラスの中で浮いてしまうことが多かった。2年前に受けた発達障害の診断書にも「コミュニケーションの仕方が独特」「身ぶり、手ぶりが同じ年齢の人とずれてしまう」と書かれていた。

 授業についていけず、成績はずっと底辺。運動神経もよくなく、持久走は常に最下位あたり。物をどこに置いたかをすぐに忘れるため、鉛筆や消しゴムなどの文房具はいつの間にかなくなっていた。

「次のことをやらなきゃとなると、次のことが頭の中に入ってきて、それまでやっていたことが消えてしまうんです」(松谷さん)

 記憶が途中で消えてしまうのは、発達障害の一つの特性だと今では認識できるようになった。しかし、「発達障害」という言葉も知らなかった当時は、周りはできているのに、なぜ自分にはできないのか理由がわからず、「自分は馬鹿なんだ」と思うしかなかった。

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