メディアに現れる生物科学用語を生物学者の福岡伸一が毎回ひとつ取り上げ、その意味や背景を解説していきます。
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今年のノーベル賞発表が終わった。総括してみよう。
まず自己総括すると、わたしの予想(ゲノム編集技術)はあっけなくハズレ。医学生理学賞は細胞の酸素センサー機構の解明、物理学賞は宇宙論と系外惑星の発見、化学賞はリチウムイオン電池(日本からはみごと吉野彰氏が選ばれた)となった。
こうして一覧すると、まことに順当な選考といえる。ノーベル3賞はいずれも、毎年、基礎分野と応用分野でわりとバランスよく授与が行われているといってよい。今年は医学生理学賞と物理学賞は基礎研究、化学賞は応用研究から選ばれた。ここでは医学生理学賞に触れておこう。
腎臓の細胞は酸素供給が低下したことを感知すると、すばやくエリスロポエチン(EPO)というたんぱく質ホルモンを生産・分泌する。EPOは造血細胞に作用し、赤血球が増産される。赤血球は酸素の運び手なので、これが増えれば全身の酸素供給を上昇させることができる。それゆえ、EPOは優れた抗貧血症薬になる。一方で、運動選手にとっては画期的な造血薬となる。なので自転車や陸上競技のドーピングに悪用されることになった。EPOはたんぱく質であり、体内で自発的に生産される自然物と見分けがつかず、すみやかに代謝(分解)されるので、検査で検出されにくいのだ。
さて、ノーベル賞の対象となったのは、EPOそのものの発見ではなく、酸素が低下するといかにしてEPO生産がオンになるかという問題を究明した研究だった。EPO遺伝子のスイッチを調べたという点で、遺伝子発現機構の解明ともいえる。
その遺伝子の上流には特殊なDNA配列があり、HIF(低酸素誘導因子)というたんぱく質が結合できるようになっている。この結合が起きるとEPO遺伝子がオンになる(DNAからRNAが転写され、RNAからEPOたんぱく質が作られる)。