手帳の内側には「拝謁記」の文字や記録した期間の日付も記されていた (c)朝日新聞社
手帳の内側には「拝謁記」の文字や記録した期間の日付も記されていた (c)朝日新聞社
敷島紡績(現・シキボウ)の高知工場で、日の丸を振る従業員の奉迎を受ける昭和天皇。田島道治宮内庁長官(左端)が後ろにつく/1950年3月23日、高知市で (c)朝日新聞社
敷島紡績(現・シキボウ)の高知工場で、日の丸を振る従業員の奉迎を受ける昭和天皇。田島道治宮内庁長官(左端)が後ろにつく/1950年3月23日、高知市で (c)朝日新聞社
田島道治(たじま・みちじ)/1885~1968、名古屋市生まれ。東京帝国大学法科大学卒業。戦後は大日本育英会会長や貴族院議員を経て1948~53年に宮内府(宮内庁)長官。退官後は日本銀行監事、ソニー会長などを務める (c)朝日新聞社
田島道治(たじま・みちじ)/1885~1968、名古屋市生まれ。東京帝国大学法科大学卒業。戦後は大日本育英会会長や貴族院議員を経て1948~53年に宮内府(宮内庁)長官。退官後は日本銀行監事、ソニー会長などを務める (c)朝日新聞社

 戦後、昭和天皇と約600回にわたって面談した初代宮内庁長官の記録が見つかった。内容を取捨選択せず、聞いたままを記していたものとみられる。分析した専門家は「天皇の心の動きや何を気にしていたかがよくわかる」と話す。

【写真】敷島紡績(現・シキボウ)の高知工場で、日の丸を振る従業員の奉迎を受ける昭和天皇

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 戦後の初代宮内庁長官を務めた田島道治(みちじ)が、昭和天皇との約600回に及ぶ面談を記した記録が見つかった。戦後の激動期、皇室改革の使命を帯びて就任した田島が、天皇の言葉に耳を傾け、ときに進言したやりとりが詳細に記されている。

「天皇と側近が密室で交わした会話はブラックボックスの中にあった。その内容を明らかにするきわめて貴重な歴史資料」と専門家は高く評価する。

 記録は手帳やノート計18冊。一部の表紙裏に「拝謁記(はいえつき)」と書かれている。1948(昭和23)年に宮内府(翌年宮内庁に改組)長官に任命された田島が、翌49年2月から退官した53年12月にかけて、昭和天皇と面会した際のやりとりを詳細に記した。遺族から入手したNHKが8月中旬に内容を報道し、遺族の同意を得た部分を抜粋して報道各社に公開した。

『昭和天皇』などの著書がある古川隆久・日本大学教授(日本近現代史)は他の3人の研究者と分析に携わった。天皇との面談内容が細かい字でびっしり書き込まれている。「いゝだらうネー」「六ケ(むつか)しいネ」などの話し言葉も記されたほか、「送り仮名の誤記や当て字など表記の乱れも多く、後日ていねいに清書したものではない。内容を取捨選択せず聞いたままを記したとみられます。天皇と面会したその日のうちに、会話の内容を忘れないよう書き留めたのでしょう」と古川さんはみる。

「拝謁記」が48年6月の就任早々ではなく、翌49年2月から始まる理由について、古川さんは「田島は宮中に勤めた経験がなかった。当時の日本は過渡期にあり、天皇と直接面談する立場にある長官は、天皇の言葉を踏まえて政府や連合国軍総司令部(GHQ)などへの対応を進めるため、面談内容を逐一記録する必要があることに、途中で気づいたのではないでしょうか」と推測する。

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