批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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あいちトリエンナーレの騒動が収束しない。8月1日に開幕した同展では、慰安婦像および天皇の肖像を用いた作品の展示に市民の抗議が殺到し、3日で公開が中止となった。
ところがその判断に抗議し、こんどは他の出展作家が反発、声明を出したり展示中止を申し出たりする事態に発展している。20日からは新たに8組の展示が閉鎖あるいは一部変更となり、本稿執筆時点(21日)では、最初に問題となった展示を含め12組の作品があるべきすがたで鑑賞できない。大規模国際美術展の運営としては、前代未聞の事態である。
筆者はじつは同展で企画アドバイザーを務めていた。展示や中止の判断には関わっていないが、混乱の拡大に道義的責任を感じている。芸術監督の津田大介氏と意見の相違があったため、アドバイザーは14日付で辞任した。この場を借り、愛知県民と出展者のみなさんに改めてお詫びしたい。
そのうえで記すが、この問題については、左派作家の「表現の自由」が、保守派による検閲やテロで脅かされたと要約されることが多い。監督がそう主張しているし、報道もそれを踏まえている。中止への批判も、その構図を前提にしている。
たしかに、政治家の介入的発言や犯罪予告などがあったことは事実である。それは批判されるべきである。しかし、事実関係を追うかぎり、展示中止のおもな理由は市民からの抗議電話の殺到にある。
慰安婦や天皇制を扱った作品の展示に日本の市民が過敏に反応すること、それそのものが病理だということはできる。それはたしかに不自由である。しかし、それはとりあえずは検閲やテロとはわけて議論すべき問題でもある。それが「表現の自由が奪われた」と要約されたことで、多くの作家が賛否を表明せねばならなくなり、議論が不必要に拡大してしまった。津田監督には、まずは問題の収束に全力を尽くしてほしい。これ以上離脱作家が増えるのであれば、トリエンナーレの存続も危うくなってしまう。
同展の運営については、第三者委員会が設置され検証が始まっている。そちらにも協力していきたい。
※AERA 2019年9月2日号