ジャニーズ人気舞台が数多く上演された東京・日比谷の帝国劇場。終演後、ジャニーさんがロビーに立ち、関係者を見送ることもあった(c)朝日新聞社
ジャニーズ人気舞台が数多く上演された東京・日比谷の帝国劇場。終演後、ジャニーさんがロビーに立ち、関係者を見送ることもあった(c)朝日新聞社
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 ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川さんが7月9日、87歳で亡くなった。多くの人気グループを生み出し、戦後日本の男性アイドル文化を確立した。所属タレントが語るエピソードを通じて、多くのファンに愛された。その功績と、彼が作り上げた数々の舞台を振り返る。

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 ジャニーズ事務所のタレントたちは、いくつになってもどこかに少年の面持ちをのぞかせ、たとえワルぶっても品の良さをきらめかせる。半世紀以上、芸能界を彩ってきたきら星のごときタレントたちこそ、ジャニーズ事務所の社長、ジャニー喜多川さんの最大・最良の作品であろう。

 ジャニー喜多川さんは、そんなタレントたちの成長を父親のように見守り、叱咤激励し続けた。常に現場に身を置き、身軽に動きやすいようにするためか、運動靴を履いていたのが印象的だった。

 ジャニーさんが生み出した人気グループやタレント、ミュージカル、ショー、音楽ステージは数知れず、この“運動靴のカリスマ”の喪失は、ジャニーズ事務所にとってだけでなく、日本の芸能界にとって、あまりにも大きい。

 ジャニーズ事務所のタレント第1号は、1962年、あおい輝彦ら4人によって結成された「ジャニーズ」だ。彼らの活躍は、「A.B.C-Z」らによって舞台「ジャニーズ伝説」として上演された。

 70年代には、後に事務所を離れる郷ひろみや、「フォーリーブス」が人気を博する。フォーリーブスの4人の個性は見事に異なり、しかもいずれも魅力的だった。これが、その後すべてのグループに発揮されるジャニーさんの「絶妙な組み合わせのセンス」の始まりだった。

 80年代に入ると、各人の独立性も認めた「たのきんトリオ」やダンスを重視した「少年隊」などが芸能界を賑わせた。80年代後半にはローラースケートを取り入れた「光GENJI」も登場。

 ジャニーさんの「組み合わせセンス」を考えるとき、筆者は70年代に流行したテレビアニメ「科学忍者隊ガッチャマン」における白を基調とする「大鷲の健」と、ダーク色を基調とする「コンドルのジョー」の対比術を想像する。「光GENJI」でいえば「健=諸星和己」、「ジョー=大沢樹生」の二極を置いて、メリハリをつけるという手法だ。

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