

元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。
* * *
日本酒のラベルを書くという暴挙に及ぶ。
きっかけは燗酒マニアの酒席。マイクロ酒蔵の杜氏に、酔った勢いで調子こいて「今習字習ってるんです。いつか日本酒のラベルを書くのが夢!」と言ったら「じゃあ今年出す酒のラベル書きます?」。うそ~信じられな~いと小躍りして友達に自慢しまくっていたのは一瞬であった。
酒の見本の小瓶が送られてきた。飲んで自由に名前考えてねと。えっそこから? 酒の名は山ほど知っている。ダサい名前の酒も知っている。そしていざ自分で考えるとダサすぎるものしか浮かばない。送られてきた酒は予想以上に美味かった。重圧が高まる。蔵人様の半年にわたる苦労の結晶が、私のアホなネーミングで台無しになるのだ。ああどうしよう。平凡なものでもいけないし、と言って奇をてらうのも最悪である。
決死の思いでなんとか名を決め、今度は「書」である。
実は習字を始めたのは1年前、しかも月に1度先生の前で書くだけなんて今更言えやしない。試し書きしてみたが全くカスである。非常に焦る。酒屋へ行って居並ぶ一升瓶のラベルをじいと眺める。改めて見るとどれもこれも凄い。凄すぎる。ダサいラベルとバカにしていた酒も(すみません)書は間違いなくすごい。AI時代にこれだけの書家が数限りなくいることにクラクラする。頭を丸めて謝りたい。
覚悟を決めて家に帰り、何はともあれ真剣に墨をする。半紙を一升瓶のラベルの大きさにカットし、とにかく書いた。あれこれ迷い、迷いを消さねばと迷い、発想を変え、目を閉じ、スピードを出し、また落とし、部屋の床はたちまち未完のラベルで埋まった。書けば書くほど悪くなり、また良くなるのだった。ついに筆を置き、ダメなものを除いていく。最後に残った1枚を長文の手紙(言い訳)とともに勇気を振り絞って送る。
字を書く。それだけのことがここまでの大騒動になったことに驚く。字なんていくらでも書いてきたのに、見えていたのに何も見ていなかった。世の可能性は無限である。
※AERA 2019年4月22日号
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