

哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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「論理国語」という新課程が登場すると報道で知ってはいたが、中身がわからない。最近国語の先生がたとお会いする機会があったので、教えてもらった。
学習指導要領によれば、論証のための語彙や文章構造に習熟し、情報を階層化して整理し、推論し、主張を支える根拠を示し、読者を説得することなどが学習目標に掲げられていた。それだけ見れば、結構なことが書いてある。しかし、そのような能力をわざわざ「文学国語」と切り分けて選択的に開発する喫緊の理由がよく分からない。
断片的な情報を素材にして推論し、立てた仮説を検証する過程を心躍る文体で表現した文章に魅了されたのは、私の場合は、エドガー・アラン・ポウの『黄金虫』を読んだ時である。羊皮紙に書き残された暗号を解読して、海賊キッドの財宝を発見する推理のプロセスに、小学生だった私は激しく興奮して、「こういう知性の行使ができたら、どんなに素晴らしいだろう」と嘆息した。当然、その後『盗まれた手紙』を読み、『モルグ街の殺人』を読み、さらにコナン・ドイルのシャーロック・ホームズで推理の至芸に触れるに及ぶのは当然のことであった。「推理の妙術」を求める私の旅はポウに始まり、15年ほど後にクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』に至ってやんだ(断片的情報から驚嘆すべき仮説を推論する能力においてレヴィ=ストロースを超える知性を見いだすことは難しい)。
生徒たちが論理的な思考とはどういうものかを知るなら、コナン・ドイルを読むだけで十分じゃないですか(できたらポウも)と私は不機嫌な声で国語の先生たちに申し上げた。不機嫌になったのは「論理国語」のモデル問題として示されたのが、どこかの学校の生徒会での会話と生徒会規約を読み合わせて、「発言者が規約のどの条項に依拠して発言しているのか」「規約上、今年度中に生徒総会が開けるか」を問うものだったからである。例規集や契約書を読むと知的興奮を覚えるという人間もどこかにいるのかもしれないが、私が知る限り、子どもたちを論理的思考に導くのは「論理的に思考している知性の鮮やかな働き」に触れる経験以外にない。
※AERA 2019年4月8日号