「まだ売れていないなかで、高座ではみんな真剣勝負。目いっぱい稽古しましたね」

 新作の講談をかける日もあれば、連続ものをかける日もあった。16年1月、故・桂歌丸をゲストに迎えた会で、「今まで聞いた『鹿島の棒祭り』のなかで一番おもしろかった」と評された。

「成金」は、遠からず解散が決まっている。11人のなかで1人でも真打が出れば、「成金」は解散すると、結成当初から決めているからだ。

「これから先、誰がどうなるかわかりませんが、お互いの高座を見ればすべてがわかる。負けたくないですよね。いい刺激を与え合える人たちと、巡りあえてよかったと思います」

 彼らとはこれからもつながり、そして争っていく「同志」だ。

 当初、実は「売れたい」と思っていなかった。だが、講談が好きで一生懸命やっているうち、売れないと何も届かないと思うようになった。

 いま、寄席芸能的に「売れている」自覚はある。売れて、わかったことがある。
 売れようが売れまいが、高座はなにも変わらない。

「皆さん、評判からぼくを『おもしろい人』と認識してか、笑いが多い。ぼく自身の高座はなにも変わっていないのに、空気ができあがっている。それが心地よくもあり、なにか引っかかるんです」

 複雑な心境をにじませるのは、客のことを考えているから。講談は、史実や歴史的背景を下敷きにする。ある程度の知識があったほうが、俄然講談を楽しめる。だから、客によって解説をどの程度入れるか腐心する。

「おもしろくないと思われていた講談を、『おもしろい』と思ってもらうことで、ぼくは評価を受けてきた。次は、『神田松之丞おもしろいじゃん』というハードルを越えないといけない。いつも正念場です」

 稽古は時間が無尽蔵にあった前座時代ほどできなくなった。けれども、はじめての客も、常連も、十二分に喜ばせたい。高座で稽古も重ねたい。そのバランスで、「悶絶しています」。

 二ツ目だから、完璧を求められているわけではない。いまは、「恥をかける時期」だ。どんな大こけをしても、笑いに変えればいい。

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