哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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出入国管理法改正の審議が始まった。これまで政府は「いわゆる移民政策をとることは考えていない」と述べてきた。自民党が「移民」を「入国時点で永住権を有するもの」と定義したせいである。そう定義すれば、今いる外国人もこれから来る外国人もほとんどは「移民」に該当しない。だから、移民問題は起きず、移民政策も不要であるという不思議な論法である。
首相の支持基盤である極右層が移民の受け入れにアレルギーを示すので、彼らに配慮して定義変更をしたのである。言葉の定義を変えればEUやアメリカで起きているような移民問題は日本では起こらないと信じられる人たちの思考回路がどうなっているのか、私にはうまく想像もつかない。
今日本では128万人の外国人が働いている。この10年で倍増した。コンビニやファストフードで外国人が接客することはもう当たり前となったし、始発の電車では早朝出勤するアジア系の若者たちを多く見かける。
それでも人手が足りないというので、2019年度からの5年間で最大35万人程度を受け容いれることにした。
だが、それが日本人の雇用条件にどんな影響を与えるのか、社会保障の適用はどうするのか、劣悪な労働環境のせいで失踪者が続出している外国人技能実習制度はどうするのかといった喫緊の問題については何の具体案も示されていない。それを議するのは「移民」政策であり、「外国人労働者」については議論不要だと言い抜けるつもりなのだろう。
国連では移住理由や永住権の有無や移住期間にかかわりなく、定住国を変更した人々を「国際移民」と呼ぶ。政府が移民について国際通用性のない定義に固執するのは、必要な時には労働力として受け入れるが、雇用環境が変わって(例えば自動化が進んで)必要がなくなったら、その時は「出て行け」と言う権利を留保したいからである。雇用の調整弁は欲しいが、社会的に包摂する気はないという態度をこのまま続けるなら、いずれ日本各地に大小の「ゲットー」が生まれ、排外主義イデオロギーが猖獗(しょうけつ)をきわめることは火を見るより明らかであるのに。
※AERA 2018年11月26日号