お笑い芸人のマキタスポーツさんによる「AERA」の連載「おぢ産おぢ消」。俳優やミュージシャンなどマルチな才能を発揮するマキタスポーツさんが、“おじさん視点”で世の中の物事を語ります。
* * *
このリーディングテストをご存知だろうか。
「Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある」
続けて、この設問はこう展開する。
「この文脈において、以下の文中の空欄に当てはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい」Alexandraの愛称は( )である。(1)Alex(2)Alexander(3)男性(4)女性
さて、解答は(1)~(4)のどれか?
答えは(1)である。なんでもこれを正解する中学生が50%に満たないというデータがあるそうだ。ちなみに私は間違えた。人からこのテストを振られ、読んだ時点では(4)と考えていて、次にその者から今度はこの問題文を聞かされ、ようやく(1)とわかった。こういうのをAI読みというらしい。詳しくは『AIvs.教科書が読めない子どもたち』(新井紀子著)を読んでいただきたい。
ところで、「読む」ということについて、ここ最近考えていたことに「批評や評論の不要」がある。そして代わりにものすごい勢いで説明不要の「感動」が猛威を振るっているこの現状。
例えば高校野球とプロ野球を比べてみよう。評論という「読み込み」が必要なのは明らかにプロの方。何故なら高度だから。失敗が極端に少なく、高い技術がある。逆に高校野球は「読む」より「見る」方が圧倒的に良い。失敗、大逆転などハラハラが多いのだ。説明不要である。
「簡単」「分かりやすさ」は大きい動員(経済)が見込める。オリンピックはどうか。“アマチュア競技の普段”は高度な技術と、それを支える読解力が必要な場だろう。技術というのは“縦糸”の歴史の結果だ。ところがオリンピックになると様子が違ってくる。“横糸”の感動だけで、国民を纏(まと)めようとする。終わるとバラバラになるのは当然。