批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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ブレット・カバノー氏の米連邦最高裁判事就任が承認された。同氏の就任は、最高裁判事の過半数を保守派が確保したことを意味している。
米最高裁判事は終身制で、いちど就任すると長期間にわたり司法に大きな影響を及ぼすことができる。それゆえ判事の多数派を保守がとるか、リベラルがとるかは重要な問題で、今回の就任にあたっては共和党と民主党のあいだで激しい駆け引きが行われた。
なかでもとりわけ話題になったのが、36年前、カバノー氏がまだ高校生だった時代の暴行疑惑である。17歳の同氏に暴行されそうになったと当時15歳だった大学教授が告発し、9月27日には公聴会まで開かれた。その様子は中継され、多くの有権者が両者のやりとりを見守ることになった。
この問題については、世界的なMeToo運動の後押しもあり、カバノー氏を批判する記事が多い。筆者も米司法の保守化には警戒心を抱いている。高校生だからといって、暴力が許されるものでないこともあきらかだ。
しかし同時に思うのは、40年近く前の密室で起きたできごとを、被害者の記憶に基づいて語り、政治的なショーとして利用することの危険性である。ぼくは今回の告発が虚偽だと言いたいのではない。告発は真実だろうし、カバノー氏の対応はたしかに判事としての資質を疑わせるものだった。
けれども一般に記憶は誤る可能性があるし、告発は捏造されることもある。何十年もまえに未成年のあいだで起きたトラブルを国家規模の政治ショーに変えてしまった今回の騒動は、この点でパンドラの箱を開けるものだったように思われる。つぎに標的になるのはリベラル側かもしれない。
36年前にはSNSはなかった。だからカバノー氏は逃げ切ることができた。けれどこれからはSNSがある。今後先進国の政治は、互いが互いの陣営の何十年もまえの書き込みを掘り返し、スキャンダル合戦を仕掛ける不毛な世界になっていくのかもしれない。その環境で政治に選良が残るだろうか。ポピュリズムの強化をいかに避けるか、対策を考える必要があるだろう。
※AERA 2018年10月22日号