安倍首相は97年に故・中川昭一自民党副幹事長(当時)らと「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を結成。同年には憲法改正を推し進める「日本会議」と超党派の「日本会議国会議員懇談会」も誕生している。

 98年には参議院選挙の惨敗を受け党内に「民主党政策研究プロジェクトチーム」が発足。安倍首相は座長として、民主党の泣きどころは安全保障政策などと分析する中間報告をまとめた。

 03年に小泉元首相のもと、安倍首相は49歳の若さで自民党の幹事長に就任。自主憲法制定に意欲を見せた。

 第1次安倍政権退陣後の07年には、リベラル色の強い福田康夫政権を牽制するように「真・保守政策研究会」を結成。政権交代後の09年に安倍首相が会長に就き、名称を「創生『日本』」に変更した。それらのメンバーが中心になって、自民党は12年に日本国憲法改正草案を発表している。

「当時はリベラル派の谷垣禎一(さだかず)総裁だが、安倍首相のグループの勢力が強いことは、右派寄りの憲法草案を見れば明らか。リベラルの民主党に対し、どう対抗するか。自民党が急速に右傾化したのは野党時代だ」(中北教授)

 民主党に政権の座を明け渡した09年の衆院選では、派閥領袖や閣僚経験者も相次いで落選。一方、逆風への強さを見せたのが世襲議員だった。当選した119人のうち、世襲議員は50人にのぼった。

 慶応大学名誉教授(憲法学)で弁護士の小林節氏(69)はこう話す。

「自民党の憲法観が大きく歪んだのが09年の衆院選だ。利権が絡まず、票にも金にもならない憲法審査会は、もともと地盤の強さだけで勝てる世襲議員が多い傾向があった。それが政権交代による自民党の惨敗で、世襲議員と改憲マニアのような議員ばかりになった」

 自民党の憲法調査会長を務め、党の憲法論議をリードしてきた前出の船田議員も09年に落選した一人だ。

「次の選挙で当選し、憲法改正推進本部本部長として県連などに説明する立場になったが、05年にまとめた新憲法草案との違いが大きく、『これはあくまでたたき台です』などと苦しい説明に追われた。名は体を表すというが、国防軍という名称が入るなど右バネが利き過ぎていると感じた」(船田議員)

●イージーな憲法改正案は、歴史に名を残すのが目的か

 安倍首相は総裁選の演説などで改めて憲法改正の意欲を見せているが、前出の山崎元副総裁の見方は冷静だ。

「憲法に自衛隊を明記することを目指しているが、国民の大半は自衛隊を憲法違反と思っていないだろう。なぜなら既に国会で成立し何度も改正されている自衛隊法がある。憲法違反の法律などないのだ。沖縄返還をやった佐藤栄作、日中国交正常化をやった田中角栄、国鉄を民営化した中曽根康弘、郵政民営化の小泉純一郎、それに比べて長期政権だがレガシーが何もない安倍。自衛隊を明記する加憲案なら抵抗も少ないだろうと、つまりイージーな憲法改正案は、党是である憲法改正を初めて実現した自民党総裁として歴史に名を残すだけが目的なのだろう」

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