批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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7月6日、オウム真理教元教祖・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚をはじめ7人の死刑が執行された。
異例の7人同日執行は多くの波紋を引き起こした。死刑は先進国では例外的で、今回の執行にも国際的に非難の声があがった。国内では死刑支持が多数派だが、それでも1日7人執行は法務省が情報公開を始めて以来最多で、驚きを与えた。加えてこの事件については、松本は重篤の精神疾患を発病し執行は適さないとして、執行延期と「真相解明」を要求する会が6月に発足したばかりだった。教祖と幹部の同時執行は、残る信者に悪影響を与えるとの観測もある。
さらに問題になったのはメディアの狂騒である。6日朝に松本の執行が公表されると、キー局は残りの執行を追うため特別体制を組んだ。それは死刑をショーに仕立てる行為のようにも見え、ネットを中心に非難が巻き起こった。また同日は150人を超える死者を出した西日本豪雨の初期にあたり、災害より死刑報道を優先させる姿勢にも疑問の声があがった。
さまざまな語り方ができる事件だが、ここで注目しておきたいのは、今回の執行があちこちで「平成の終わり」と重ねられていることである。背景には来年の改元があるが、それだけでもない。
オウム真理教は平成の混迷を象徴する存在だった。地下鉄サリン事件が起き松本が逮捕された1995年は、阪神・淡路大震災も起き、戦後社会の大きな機となった。すでに平成は7年に入っていたが、いま平成という名で想起される時代の空気はそれ以降のものだろう。それはまさに、経済が弱くなり、政治が機能不全に陥り、社会が壊れた混迷の時代だった。オウムの名は、多くの人にその始まりとともに記憶されている。
だから少なからぬ人々が、松本の死に、その呪われた時代の終わりを重ねたがっているのではないか。過熱報道はその無意識の現れのように思われた。けれどもむろん、それは非合理な願いにすぎない。松本の死も改元もなにも終わらせてくれない。混迷の時代が本当に終わるかどうかは、生き残るぼくたちにかかっている。
※AERA 2018年7月23日号