別の損保の課長は代理店におわび行脚を繰り返した。業務停止で新規契約がとれないと、代理店にとっては死活問題になる。つい先日まで笑顔で迎えてくれた人たちの凍りついた表情を見つつ、商品のパンフレットを回収するのはつらかった。
保険の本分は何か。加入者から求められているのは何か。自問自答を繰り返した。三井住友海上は7月を「企業品質の月」と定め、当初は「業務停止を忘れない」が合言葉だった。
いったん方向を定めると、保険会社員の動きは速い。生保では営業職員が年1回、加入者の顔を直接見て、「お変わりありませんか」と、契約内容を確認する。連絡がつかなければ、ある会社では支社の専任担当が電話。自宅にも行き、引っ越したとわかれば、その先をたどる。契約確認運動を各社が始めた。
思わぬ余得もあった。08年のリーマン・ショック。業務停止や契約の調査で守りの姿勢を固めていたことで、それほどの大けがをせずにすんだ。とはいえ国内は景気後退期に入り、営業現場では法人顧客の業績の厳しさを肌で感じるようになった。
損保各社は再び合併に踏み切った。海外の新たな市場をめざし、年々被害が大きくなる自然災害にも備え、「ライバルにとられる前に」と、大型の経営統合が相次いだ。
生保も続いた。第一生命は10年、株式会社に転換。それまで加入者を社員とする相互会社だったが、資金調達やM&A(企業合併・買収)をしやすい組織に変えた。なにより驚いたのは社内だったという。創業者の矢野恒太が保険業法の制定にかかわり、相互扶助を具現化した相互会社の概念を法律に盛り込んだからだ。第一生命は日本最初の相互会社だった。
海外企業の大型買収が始まった直後の11年、東日本大震災が発生。各社は「保険金不払い問題の反省を生かせ」と、一刻も早く保険金を支払うべく大勢の社員、職員を被災地に投入した。
日本損害保険協会は中央対策本部を立ち上げ、事務局長に栗山泰史さんが就いた。各社がそれぞれ実地調査をすると時間がかかる。対策本部の号令のもと、衛星写真を使って津波による家屋の全損地域を一括で認定、細かい手続きを省いてすばやく保険金を支払った。栗山さんは一時体調不良となり、点滴とスポーツ飲料だけで過ごしながらも80時間、指揮を執り続けた。