哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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毎日日替わりで新しいニュースが届けられるので、この原稿が印刷される頃に政局がどうなっているか予測がつかない。それでも「祇園精舎の鐘の声、盛者必衰の理をあらわす」という言葉が身にしみる人たちが多いことだけは確かだ。
官邸前デモに取材に行った記者たちの話によれば、「怒りのあまり」デモに来たという人たちがずいぶん多かったとのこと。政策についての不同意は必ずしも「怒り」という感情を伴わない。だが、今の政権への批判を駆り立てているのは「怒り」である。それは政治家の「あまりのマナーの悪さ」に起因している。
こちらの言い分が先方にご理解頂けない場合、私たちはふつう「情理を尽くして語る」ように努める。できるだけ分かりやすい、筋の通った話をしようとする。でも、今の政権はまことにわかりにくい話を国民に理解してもらわなければならない立場にありながら、「情理を尽くして語る」という態度をまったくとっていない。木で鼻をくくったような無作法を押し通し、詳細な説明を忌避し、話のつじつまを合わせる努力さえ惜しんでいる。
「そういう態度」をとっても誰からも責められず、ペナルティーも科されないということが5年以上続いたのだから仕方がない。経験則は「腰を低くしたら相手がつけ上がる。だから、ひたすら強気で押す」という戦略の有効性を教えた。確かにこれまではそれで通った。だから、今回もそれで通るだろうというのは推論としては合理的である。でも、一つ忘れていることがある。それは人間には「受忍限度」というものがあるということだ。
「いい加減にしろ」というのは「あなたの言っていることは間違っている」という正否の判断とはレベルが違う。しかし、「もううんざりだ」という膨満感に一度とらえられた人間が再び「それ」に敬意や愛着を持つということはまず起こらない。
森友問題は動いた金額は大きいけれど、官僚が政治家に媚(こ)びてみせたという薄っぺらな縁故主義の案件に過ぎない。だが、この事件の取り扱いで政権が倒れるリスクは高い。それは政権の「態度の悪さ」が国民の受忍限度を超えたからである。
※AERA 2018年4月2日号