東京・浅草の小さな遊園地「浅草花やしき」。ここを拠点とする「花やしき少女歌劇団」にかつて、小児がんで右足を失いながらもセンターで歌う少女がいた。
少女の名は木村唯さん。
私は2014年秋、初めて彼女の存在を知った。東京・築地にある国立がん研究センター中央病院の院内学級の取材で、闘病中だった唯さんの歌声を聞いたのだ。「ママ、産んでくれてありがとう」。抜群の歌唱力と、歌に込められたメッセージに強く心を揺さぶられた。
いつか唯さんのことを書きたいと思いながら果たせずにいた。15年秋に亡くなったことを知ったのは半年以上たった後。足跡をたどる取材が始まった。
小学3年生で地域アイドルグループの「花やしき少女歌劇団」に入団。歌手で作曲家の故・平尾昌晃さんに歌の才能を見いだされ、3人組ユニットでプロデビューする話も持ち上がった。
その矢先の中学3年の夏、唯さんは右足の痛みに襲われる。診断は小児がんの一種「横紋筋肉腫」。本人にも病名は告知された。このときすでに「ステージ4」であることは、両親だけに伝えられた。
抗がん剤による激しい吐き気と、ごっそり抜ける髪の毛。どんなに苦しくても、唯さんは常に歌劇団のことを考えていた。病室で歌劇団のショーの動画を見て「笑顔が足りない」「こんなステージをお客さんに見せるの?」。「だめ出し」は歌劇団の少女たちを奮い立たせた。
経過は思わしくなかった。「これ以上続けても治せない確率のほうが高い」──最低限の治療にとどめ、残された時間を有意義に過ごしたほうがよいという主治医の提案に、唇を噛んだ。
両親は一縷の望みをかけ、国立がん研究センター中央病院にセカンドオピニオンを求めた。右足の切断。それが残された道だった。母の雅美さんはネットで義足のファッションモデルの写真を見つけ、唯さんに見せた。「きれいだね、すごーい。義足に見えないね」。義足をつければステップくらいのダンスはできるかもしれない、と伝える雅美さんの言葉に、唯さんの心は動いた。「手術しようかな……」