

南満州鉄道株式会社、通称「満鉄」。かつて超特急「あじあ号」が広大な満州の原野を走った。敗戦で満鉄は消滅し、今では多くの関係者が鬼籍に入った。戦後72年。満鉄とは何だったのか。関係者の記憶を集めた。
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満鉄の「顔」といえば、超特急「あじあ号」だ。1934年11月、大連─新京(現・長春)間の約700キロ、翌35年にはハルビンまで約940キロを走った。広大な原野を時速100キロ以上で驀進する弾丸列車は、満鉄社員の誇りでもあった。
あじあ号を牽引したのが蒸気機関車(SL)の「パシナ」。34年、日本の鉄道技術の粋を集めて設計、製造。SLなのに斬新な流線形の車体、直径2メートルという世界最大の大動輪が醸し出す豪快なイメージから、鉄道ファンの間ではいまだ「幻のSL」と呼ばれている。撮影したフォトジャーナリストの櫻井寛さん(63)は言う。
「いかにも大陸らしい大きくておおらかで丸みを帯びた巨体。流線形のボディー、スカイブルーの塗色、BMWのキドニーグリルにも通じるフロントグリル。これらが80年以上も前に、日本の鉄道技術だけでつくられたとは、驚くばかりでした」
ところがこのあじあ号、有名な割に実際に乗った人は驚くほど少ない。元満鉄会専務理事の天野博之さん(81)の計算によれば、あじあの実運転期間(99カ月)の乗客総数は約160万~200万人と、東海道新幹線の1週間分にもならない人数だったそうだ。
「あじあ号が今に至るまで私たちの心を引きつけてやまないのは、当時、日本人が誇ることができる数少ないものの一つであったからではないでしょうか」(天野さん)
(編集部・野村昌二)
※AERA 2017年9月18日号