あじあ号を牽引(けんいん)した蒸気機関車「パシナ」。中国・瀋陽(旧・奉天)の蘇家屯(そかとん)機関区の一番奥の留置線で、氷雪に半ば埋もれていたが、整備され、瀋陽の蒸気機関車館に保管された/1984年(櫻井寛氏撮影)
<br />
あじあ号を牽引(けんいん)した蒸気機関車「パシナ」。中国・瀋陽(旧・奉天)の蘇家屯(そかとん)機関区の一番奥の留置線で、氷雪に半ば埋もれていたが、整備され、瀋陽の蒸気機関車館に保管された/1984年(櫻井寛氏撮影)
元満鉄会専務理事 天野博之さん(81)父親が満鉄幹部だった「満鉄2世」。満鉄会で「満鉄会報」の編集など弘報を担当し、『満鉄を知るための十二章』(吉川弘文館)などを出版。満鉄に関する発言も多い(撮影/野村昌二)
<br />
元満鉄会専務理事 天野博之さん(81)父親が満鉄幹部だった「満鉄2世」。満鉄会で「満鉄会報」の編集など弘報を担当し、『満鉄を知るための十二章』(吉川弘文館)などを出版。満鉄に関する発言も多い(撮影/野村昌二)

 南満州鉄道株式会社、通称「満鉄」。かつて超特急「あじあ号」が広大な満州の原野を走った。敗戦で満鉄は消滅し、今では多くの関係者が鬼籍に入った。戦後72年。満鉄とは何だったのか。関係者の記憶を集めた。

*  *  *

 かつて日本が傀儡国家としてつくった満州国(中国東北部)。遼東半島南部の関東州・大連の日赤病院で生まれた天野博之さん(81)は戦後長く、父親が満鉄(南満州鉄道株式会社)幹部だったことは公にしてこなかった。

「満鉄というのは、日本帝国主義の先兵と思っていましたから」

 父親は一高から東京帝国大学法学部を出て、1934年から満鉄本社の総裁室に勤務した。以後、天野さんは父親の異動にともない、大連、奉天(現・瀋陽)、新京(現・長春)、撫順、吉林と移り住んだ。満州では社宅に住んだ。

「社宅は水洗便所で電気、ガス、水道などが完備していました。冬になるとスチーム暖房。それを使って、風呂には一年中お湯も出ました。戦前の日本では考えられない文化的生活でした」

 敗戦から2年後の47年7月、11歳の天野さんは家族7人で日本に引き揚げてきた。しかし当時、満鉄は「植民地支配の手先」という文脈で語られることも多く、話すことがはばかられる時代の空気があった。父親も、満鉄や満州について多くを語らなかったという。天野さんは大学を卒業すると、小学館に就職。95年に定年退職すると、父親の死を受けて満鉄の旧社員や家族らでつくる「満鉄会」の会員となった。満鉄会解散時(2016年3月)、専務理事として尽力した天野さんは言う。

「農業のほかに見るべき産業を持たなかった満州の地に、鉄道をはじめ各種産業の基礎を築いたことは無視できません。そうした考えは、最近の中国でも増えています」

 満鉄は、日露戦争講和の翌1906年、ポーツマス条約でロシアから譲渡された東清鉄道の南半分(長春─旅順)と沿線付属地の利権をもとに産声を上げた。営業開始は翌07年4月で、今年は110年の節目に当たる。初代総裁は、台湾総督府民政局長を務めた後藤新平。本社は沿岸部の大連に置かれた。満鉄は鉄道だけでなく炭鉱、小中学校、病院、ホテルまで経営。最大時、40万人の社員を擁し「満鉄王国」とまで称された。(編集部・野村昌二)

AERA 2017年9月18日号

著者プロフィールを見る
野村昌二

野村昌二

ニュース週刊誌『AERA』記者。格差、貧困、マイノリティの問題を中心に、ときどきサブカルなども書いています。著書に『ぼくたちクルド人』。大切にしたのは、人が幸せに生きる権利。

野村昌二の記事一覧はこちら