歴代の芸術監督にも、強烈な才能が並んだ。中でも、東西冷戦の真っ盛りである64年に、首席バレエマスターに就任したユーリー・グリゴローヴィチは、突出した存在だった。

 ダンサーたちに肉体の限界に迫る技術的鍛錬を要求したグリゴローヴィチは、「スパルタクス」「イワン雷帝」をはじめとする、エネルギッシュでスペクタクルな作品で、ボリショイの名声を高めた立役者だ。30年以上にわたる「治世」は、その独裁的な姿勢から、同時代の大指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンにもなぞらえられた。

 しかし、91年のソ連崩壊に向かって国家体制が揺らぐにつれ、全体主義的なグリゴローヴィチ流は色あせていく。

 激動の時期にモスクワでバレエを学び、96年に外国人として初めて、ボリショイのソリストとなったダンサーが岩田守弘さんだ。ソ連崩壊直後は、国中が混乱して、多くのダンサーが海外に出て行ったが、岩田さんはモスクワに残り続けた。

「ボリショイを離れる気は、まったくありませんでした。なぜかというと、ボリショイを愛し、支えた芸術家が、たくさん残っていたからです。動乱にもかかわらず、バレエ芸術の正統な伝承を、自らの人生で示してくれた先生方の姿は、今でも忘れられません」

 21世紀が明け、自由主義の波は、ボリショイにも訪れた。2004年に芸術監督に就任したアレクセイ・ラトマンスキーは、作品に音楽性を取り戻すことで、新風を吹き込む。彼はダンサーたちに「バレエは仕事である」と、西側的なプロフェッショナリズムも浸透させた。

●軋轢生んだフィーリン

 その路線は、11年に芸術監督に就任したフィーリンにも踏襲された。しかし、ヨーロッパから前衛的な作品を持ち込み、様式の刷新を試みたフィーリンの手法は、劇場内の伝統派との軋轢も生み出してしまう。その中で、顔に硫酸を浴びせられ、失明寸前に陥れられるという、陰惨な事件が起こった。

 15年に公開されたドキュメンタリー映画「ボリショイ・バビロン 華麗なるバレエの舞台裏」は、事件の直後から劇場に撮影スタッフが入り、動揺する団員たちの様子を映し出した。

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