学生時代からニコン党という夢枕さん。右からニコンF4にレンズは35~70ミリF3.5、ニコンF3とマイクロ105ミリF4。日本はもちろん、ヒマラヤやチベットなどハードな旅に同行した愛機である
学生時代からニコン党という夢枕さん。右からニコンF4にレンズは35~70ミリF3.5、ニコンF3とマイクロ105ミリF4。日本はもちろん、ヒマラヤやチベットなどハードな旅に同行した愛機である
この記事の写真をすべて見る
木原和人さんの影響を受けたという花の接写。「レンズは光をブレンドするものだ」というように、ボケ味を生かして混じり合った赤がきれいだ
木原和人さんの影響を受けたという花の接写。「レンズは光をブレンドするものだ」というように、ボケ味を生かして混じり合った赤がきれいだ
朝日に輝くヒマラヤ山脈アンナプルナ南峰(7219メートル)。ネパール側、標高約5000メートルからニコンF4・200ミリレンズで撮影
朝日に輝くヒマラヤ山脈アンナプルナ南峰(7219メートル)。ネパール側、標高約5000メートルからニコンF4・200ミリレンズで撮影

――カメラはいつから

 昆虫が好きで、中学に入ったころ、父親が持っていたアイレス35で蝶(ちょう)やカブトムシなどを撮影したのが最初です。寄った写真を撮りたかったけど、アイレスのレンズでは無理。不満な日々が続いていました。高校時代に写真部の暗室を借りて現像を始めたら、寄れたんです(笑)。要はトリミングですね。

 大学に入ってからは、ニコマートFTNと二眼レフのマミヤC330がメーンでした。神奈川県小田原市のミユキカメラのご主人がニコンSを持っていて、しきりにニコンをすすめるんです。ニコンFも発売されていたけど高価で手が出ない。レンズは同じニコンだから撮れる写真も変わらないだろうと思って決めました(笑)。23歳のころ、この2台を持ってヒマラヤにも行きましたよ。山が好きでヒマラヤから帰ってもしばらく霧ヶ峰の炉辺人(ロベンド)ヒュッテに入り浸っていましたね。

 そこで革命的な出会いがあった。木原和人さんと出会うことで、ぼくの写真が変わった。それまではモノクロばかり、カラーはワンポイントであとはブルーか茶の濃淡といった墨絵のような感じに仕上げていたんですが、ある夜、酒を飲んでいると木原さんに「こんなに花がきれいなのに、何で赤を真っ赤に撮ってあげないんだ。みんなが驚くような赤を撮ればいいじゃないか」と言われました。それで、カラーリバーサルで撮るようになった。

――ネーチャーフォトの第一人者で、1987年に40歳で急逝した木原和人さんの影響とは

 レンズとは何かというのが、この時期にわかったんです。レンズとはピントを合わせる装置ではなく、光をブレンドするシステムだと。赤でもいろんなグラデーションがありますが、その赤をわざとボカしてブレンドすることによって花の中にスープのように光が溜(た)まって、こぼれてくるような感じに撮れる。木原さんは言葉にしていないけど、光をブレンドするということを最初に意識してやった写真家だと思う。

――お気に入りの光は?

 自然光です。ぼくの仕事部屋には曇りガラス越しにいい光が入ってくる。直射日光だと強すぎてどこかに飛ぶところが出てしまうけど、半透過光ならその心配もない。小説を書きながら原稿用紙を下に置いて反射させて撮ったこともあります。(笑)

 花とわかるのがいやなんです。基本的に花びらの外のラインがフレームに出ないようにしています。等倍以上の接写になるのでピントがむずかしいけど、ほかは全部ボケてもいいが花粉1個にでも合わせたい(笑)。当時のマクロレンズは暗くてスローシャッターになるし、人間の体は絶対に止まらないからブレないように座布団を2枚重ねた上に乗り、セルフタイマーで撮っていました。

――プロ並みですね

 木原さんとは何度か一緒に撮影に行っています。このままいくと、プロの写真家になっちゃうなという実感もありました。ヤバい。引き返せないぞと。「ああ、きれい」とか言って撮っているうちはまだいいんですが、プロはテーマ性が必要。小説を書いていると、プロがどのくらいエネルギーを消耗するか、どこまでしなくてはいけないのかがわかります。これは地獄だなと思って、意識的に踏み出さないようにしました。93年にチベットへニコンF4を持っていったのを最後に、それからぼくの愛機は「レンズ付きフィルム」。(笑)

 そして今年の5月、タクラマカン砂漠に久しぶりにニコンF4を持ち出しましたが、カメラの筋肉が戻りませんね。小説を書くときと撮影するときとでは、使う脳が違う。変なところで妥協してシャッターを押している。ちょっと悔しいよね。来年、ニコンF3かF4でまた撮りに行きたいですね。

※このインタビューは「アサヒカメラ 2005年12月号」に掲載されたものです