批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙─サイレンス─」を観た。キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる17世紀の長崎を舞台に、来日したポルトガル人司祭が棄教にいたるまでを描いた話題作である。
原作は遠藤周作の小説で、発表時には宗教界から強い反発があったという。映画はどう受け止められているのだろうか。キリスト教徒ではないぼくにはわからない。しかし本作は宗教を離れても理解できる問題を扱っている。それは普遍主義の問題である。
映画では日本人奉行が司祭に棄教を迫る。そこで軸になるのが、キリスト教の普遍性を訴える司祭と、そんな普遍性などないのだと説く日本人の論争である。日本人は宗教を統治の道具としか捉えない。だから国が変われば神も変わると考える。司祭にはまさにそれが受け入れられない。普遍でなければ神ではないからだ。
物語の舞台は400年前だがこの問題はまったく古びていない。普遍主義対相対主義の対立は、21世紀のいまも変わらず存在し続けている。イスラム過激主義の問題がそれである。文化相対主義はイスラムとの共存を説く。過激主義者はまさにその共存が許容できない。
ぼくたちはいま相対主義の時代に生きている。だから(とくに日本では)多くの観客は、司祭ではなく奉行に親近感を抱くかもしれない。イッセー尾形と浅野忠信が演じる権力者は、じつに合理的に世俗的価値観との妥協の必要性を説いている。
けれども、ぼくが感銘を受けたのは、この映画がむしろ反時代的に普遍主義の強さと尊さを描いているように思われたからである。遠藤の原作は弱さの小説だったが、これはむしろ強さの映画なのではないか。ポルトガル人司祭は遠く日本まで、命の危険を冒してやってくる。そして言葉の通じない村人と心を交わす。普遍主義者はたしかに迷惑な存在だが、世界の裏側の貧者にまで手をさしのべる強さももっている。それは非合理だが、それゆえに尊い。
「自国第一」が世界中に広がりつつあるいま、ぼくたちはもういちど普遍主義の価値を問い直すべきではないか。そんなことを考えながら映画を観た。
※AERA 2017年2月20日号