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 あのマイルスが「フレディ、おまえはうまいだけだからダメなんだ」とか言いながら、自分のトラにはいつもフレディを指名していた、と言うのがホントかウソか、中山康樹に聞いてみないと分からないけれど。

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 1977年、(ハービー・ウエイン・ロン・トニーのマイルス・クインテット)V.S.O.P.の一員(マイルスのトラ)として来日したフレディに、ぼくは初めてカメラを向けた。油の乗りきった40歳手前のフレディだったはずだけれど、ぼくの記憶は、20歳代ではなかったかと思うほど若いフレディの印象が残る。

 若々しくエネルギッシュな演奏、ベビーフェイス(とぼくは思う)、「フリューゲルホーン抱きしめて微笑んだら、チャック・マンジョーネみたいだから、このカットはボツ!

 ペットと両方抱えてシリアスな表情で頼みますよ」

 写真撮影のリクエストにも快く応じてくれる気さくな性格が、そう思わせたのかも知れない。

 22歳で初リーダー作「オープン・セサミ」(グリーンっぽいジャケ写は、ベビーフェイスを通り越して、まるで少年の横顔)をブルーノートに録音したフレディは、実力を買われてアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに入団(前任リー・モーガンの後釜とか、クリフォード・ブラウンの後継者と言われたらしい)

 1963年にジャズ・メッセンジャーズのメンバーとしての来日が初来日だった。

 以来、フレディはこれまで一体何度来日し、何回日本のステージに立ったのだろう。「オーレックス……」や「ライブ・アンダー……」「斑尾……」「マウント・フジ……」と言った夏のジャズ・フェスでは毎年会っていたような気がするし、コンサート・ホールやジャズ・クラブで、ぼくは何度となくフレディをファインダーに捕らえた。

 フレディの訃報に接してまもなく明けた2009年は、ブルーノート創立70周年。折しも開催中(新丸ビルに期間限定)の「BAR BLUE NOTE 70th」。

 150枚の名盤レコード・ジャケットで壁面を飾られた店内で、グラスを傾けながらジャズに聞き入っていた。

 ふと見ると、大型モニターにフレディの熱演。1985年、ブルーノート復活の夜(One Night with BlueNote)の映像だった。そう、この夜もフレディと同じ場所に居たんだった。

 少し熱いものが込み上げた……。

フレディ・ハバード:Freddie Hubbard (allmusic.comへリンクします)
→トランペット / 1938年4月7日~2008年12月29日