小柳:例えばどんな活動をしたのですか?

稲垣:大阪社会部のデスク時代、社員食堂のおじさんおばさんに感謝する文集を作った。新社屋への移転を機に食堂が解散するとわかり、「予算ゼロ。一人でやる」と決めた。社員から感謝の一言を募り、編集して、印刷し、製本のために紙を折った。でも作業が大変すぎて、手伝ってくれる人を募集したら、幹部から1年生まで集まった。同志のような仲間がいたとわかり、「朝日新聞は大丈夫だ」と思ったわけです。

小柳:会社に期待をせず動きだすと人がついてくる。

稲垣:本当にそう。不思議な転機の時代でした。

小柳:飯崎さんの40代は「ギアチェンジ」。転職はやめたのですか。

飯崎:実はこの会社でも何度か転職を考えた。でも、管理職である自分も若いころは上司にいろんなことを教えてもらった。だから今度は自分が下に与える番なのかな、と思った。おこがましいですが。

 地方での新事業立ち上げを任され、東京から離れた。そこで考える時間ができたんですね。50歳を迎える年齢で再び東京に戻るとき、「あと10年で定年」とゴールが見えた。残りの人生をどう生きるか、また悩みました。

小柳:いよいよ50代。稲垣さんの「新たな冒険」とは、どんな意味ですか。

稲垣:定年で、輝いていた大先輩が急に廃品みたくなるのを山ほどみてきた。もう少し、ゆるやかな価値観の転換期を求めてもいい。転換点として、50歳で会社を卒業することを考えたわけです。

 実行できたのは、「お金がなくてもハッピー」という価値観を追求してきて、「ない」ことが怖くなったのがベースにある。さらに原発事故をきっかけに始めた節電が拍車をかけた。電気製品の使用をどんどんやめちゃった。掃除機に電子レンジ、冷蔵庫や洗濯機まで。いま電気代は月166円。ガスもやめて、二日に一度、銭湯にいくという暮らしですが、本当に自由で楽しいんですね。

 現代人は、重病人が病院で多数の管につながれている「スパゲティ症候群」のイメージ。その管がなければ生きていけないと思い込んでいる。私はその管を一個一個抜いてきたんだと思います。最初は怖かった。でもやってみたら案外どうってことなかった。で、ベッドから起き上がり、歩き回れるようになった。プラグを抜いても大丈夫、むしろ自由になることなんだと。そして私の最大のプラグが会社だったと思う。

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