晩年、酸素吸入器をつけて檄を飛ばす姿は鬼神のようだった。写真はさいたまゴールド・シアターのメンバーと蜷川さん(右)/2006年 (c)朝日新聞社
晩年、酸素吸入器をつけて檄を飛ばす姿は鬼神のようだった。写真はさいたまゴールド・シアターのメンバーと蜷川さん(右)/2006年 (c)朝日新聞社
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 演劇界の巨星・蜷川幸雄さん(享年80)が亡くなった。5月12日午後1時25分。日本中の俳優たちが、「悔しい!」と叫ぶような追悼コメントを寄せた。

「僕を産んでくれたのは蜷川さんです」

 蜷川幸雄さん演出の舞台で俳優デビューした藤原竜也が絞り出した言葉だ。今秋に蜷川作品に出演予定だった小栗旬は、

「またご一緒できる。叱っていただけると心の底から楽しみにしておりました」

 渡辺謙、市村正親、大竹しのぶ、松本幸四郎、宮沢りえ、唐沢寿明、阿部寛、野村萬斎、ジャニー喜多川、野田秀樹、宮本亜門など、あらゆる演劇関係者が追悼コメントを寄せた。

 蜷川さんは1969年に演出家デビュー。アングラ演劇の世界から商業演劇に進出し、83年、ギリシャ悲劇の「王女メディア」をアテネで上演した。「世界のニナガワ」と高く評価され、シェークスピア作品をイギリスでも上演。それが、どれだけシビアな挑戦だったか。

「歌舞伎座で外国人が歌舞伎をやるようなもの」(蜷川さん)

 シェークスピアの新訳を手がけ、蜷川演出を支えた翻訳家の一人、松岡和子さんは言う。

「海外での公演は常に格闘。大変なことだったと思います」

 スタッフの半数が外国人。言語の壁を超えて一つの舞台をつくる。初日までの数日間は徹夜が当たり前で、順調だと「かえって怖い」と苦笑いした。

松岡さんには、忘れがたいイギリス公演がある。主役に真田広之を迎えた「ハムレット」(98年)だ。終演後、イギリス人観客が言った。

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