中村修二さんをよく知る人は、「ふだんは人付き合いはいい」と口をそろえる。日亜時代には営業も経験し、“接待上手”でならした/米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の研究室で(撮影/小平尚典)
中村修二さんをよく知る人は、「ふだんは人付き合いはいい」と口をそろえる。日亜時代には営業も経験し、“接待上手”でならした/米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の研究室で(撮影/小平尚典)
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 この人がキレたら、誰にも止められない。“怒り”をバネに突っ走り、ノーベル物理学賞を手にした、中村修二さん(60)。中村さんは何にキレ、どのように頂点を極めたのか。

 愛媛県の田舎町に生まれ、渡米する2000年まで四国で暮らす。自著『負けてたまるか!』(朝日選書、近日復刊)に「高校、大学、就職と私の人生は『田舎の三流』コース」と記した。「田舎の三流」から世界の一流への道のりは、「本気のぶちキレ」が原動力だった。

 1979年、徳島県阿南市の日亜化学工業に研究者として就職。学生結婚し1児の父だった中村さんは、しばらくは典型的なカイシャ人間に。ここで、「ぶちキレ」が訪れる。

 上司に命じられるまま半導体材料などの技術開発に没頭。飲み会や草野球に参加した後も泊まり込んで研究に打ち込んだのに、製品は買いたたかれた。大手の後追いだったからだ。同僚に「ムダ飯食い」と言われ、実績もない京都大学出身の後輩が自分を抜いて主任になった。

「こんな会社辞めてやる!」

 入社から10年。クビを覚悟すれば何だってできる。どうせなら辞める前に、「20世紀中の商品化は不可能」と言われた“青色LED”を開発したい──。

 当時の社長に直訴したら認められ、中村さんは朝7時から夜8時までただただ研究。世界中の研究者が高輝度の青色LED開発に血眼になる中、脈なしとされた窒化ガリウムを使う手法に懸けて、大手メーカーや有力大学のエリートたちをほぼ独力で出し抜いた。自著に、勝因は「田舎の三流サラリーマンだったからこそ」と書いている。

AERA 2014年10月20日号より抜粋