ジャズのみならず、ポピュラー音楽の譜面には、コード記号がそえられている。Cm7とかD7といったような印が、おいてある。

 楽器をさわらない人には、ピンとこないかもしれない。だが、ミュージシャンは、あれにしたがって演奏をやっている。命綱とでもよぶべき記号である。

 単旋律でしか唄わない歌手でも、自分の持ち歌をささえるコード譜を、たいていもっている。伴奏をてがけるミュージシャンたちに、このコードでやって下さいと、さししめすためである。演奏前に、楽器の担当者たちへ、そのコピーをくばっている光景は、よく見かける。

 まあ、慣れたミュージシャンなら、たいていのスタンダードを、コード進行ごと覚えている。たとえば、「オーバー・ザ・レインボウ」なら、キーはEb。AABAタイプの曲で、Eb→Cm7→Gm7という具合にはいっていく。そのくらいの段取りは、頭のなかにたたきこんでいる。

 某ナイトクラブのピアニストは、こう言っていた。

 「だいたい、600曲分くらいは、コード進行をおぼえていますね」と。

 とはいえ、歌伴の場合は、かならずしもそのとおりに進むとはかぎらない。歌手の音域にあわせる必要が、あるからだ。

 「オーバー・ザ・レインボウ」も、キーがEbではくるしい。Dbになおせないかというケースも、じゅうぶんありうる。歌手が、自分用のコード譜を、いつも用意しているのはそのためである。

 ただ、歌手ぬきで、インストだけの演奏だと、だいたいおきまりのキーですますことが多い。「オーバー・ザ・レインボウ」なら、キイはEbというのが、とおり相場になっている。だから、イントロが終われば、Eb→Cm7→Gm7と入っていく。また、9小節目、25小節からも、この音型をくりかえす。そういう演奏になるのが、ふつうである。

 たとえば、ピアノのイントロで、「オーバー・ザ・レインボウ」を演奏する。キイは、まあなんでもいいのだが、とりあえず弾き慣れたEbを選んだとしてほしい。Eb→Cm7→Gm7ではじまるパターンである。

 しかし、かならずしも、そのとおりに音が展開されていくかどうかは、わからない。ミュージシャンによっては、音をその場で変えることもある。

 まあ、出だしぐらいは、Eb→Cm7→Gm7ときめられた型をなぞることになるだろう。しかし、9小節からは、たとえばEb→D7→Gm7へと、ピアニストが音をいじくる可能性もある。それで、すこし響きを目新しくすることができるだろう。やや、深味のあるサウンドが、かもしだせるかもしれない。

 9小節目をEb→D7→Gm7にしたら、25小節目も、より音をずらしてみる。-5Am7→D7→Gm7という展開を、たとえば選び取る。9小節目ですこし深くなった音を、より深く響かせてやろう。とまあ、ピアニストたちは、よくそんなことを考える。

 音じたいは、定型からややずれる。しかし、ストライクゾーンははずしていない。9小節目がカーブなら、25小節目はフォークボールでコーナーをつく。そんな音づくりの例を、ここには書いてみた。

 いや、べつに、ストライクゾーンへかならずおさめる必要はない。インハイのボール球で、打者の体をのけぞらせる。それから、アウトローへストレートといった設計も、じゅうぶんありえるだろう。

 ピアニストによっては、わざと変な音をたたくことだって、なくはない。たまさか出てしまったその音に、こんどはつづく音をあわせてゆく。そして、ゆっくり定型へと着地することだって、たのしめる。

 つぎを、Ebにするか-5Am7にするか。それは、その場の空気がきめてくれる。ピアニストは、場の気配を感じとり、アドリブで音をつむぎだす。スライダーにするか、フォークにするか。チェンジアップをくりだすか。そんな配球法を、バッテリーがその場できめるように。

 その意味で、ジャズの演奏は生きている。アドリブが命だと言われるゆえんである。

 レコードやCDの録音ばかり聴いていると、しかしその多様性があじわえない。ほんらいは、いろいろな音の可能性があるのに、このレコーディングでは、あるパターンを選び取った。たとえば、9小節目を、Eb→Cm7→Gm7という直球でかたづけている。そんな記録でしかない録音を、絶対化してしまいかねないからである。

 その意味でも、私はいわゆる名盤をあきずに聴きつづける人が、不思議でならない。ジャズの多様なあじわいに、耳をとざしているような気がする。

 しかし、今の音がCm7なのかD7なのかを聴きわけられる人は、すくなかろう。私だって、そんな耳はもちあわせていない。理屈で言っているだけである。しかし、そこがピンとこなければ、ジャズの音づくりを、ほんとうのところはたのしめないと思っている。