仕事がら、人前での講演をたのまれることが、ときどきある。それを仕事にしているわけではないが、注文をうければ、ことわらない。先約がないかぎり、これまではこころよくひきうけてきた。
しゃべってほしいと言われだしたのは、30歳台のはじめごろから。今は54歳だから、もう四半世紀ほど、つづけてきたことになる。月に一度くらいの割合で注文はあるから、ずいぶんな数をこなしてきたなと、そう思う。
はじめのころはあがりもしたが、もうそんなことはない。場なれがしたとでもいうのだろうか。一時間ぐらいの話なら、だいたいうまくこなせるようになってきた。
のみならず、このごろは、やや悪達者にもなっている。客席の反応によって、話に変化をそえる技も、身につけた。聴衆の気配で、しゃべりかたを加工することも、今はできる。
ははあ、今日の客は、こういうところに反応するんだな。そうしたら、このネタを伏線にふっておいて、あそこで落ちをつけよう。イン・ハイにボール気味のストレートをなげて、チェンジアップで処理をする。そのこつも、私なりにつかめてきた。
客席の気配で、話を自在にくみたてる。もちろん、その骨組はあらかじめ用意しておく。しかし、場の雰囲気で、アドリブもはさみこむ。その機転は、話し手である私にとっても、なかなか心地よい。その場で、とつぜんひらめくこともあり、着想をひきだす機会にもなっている。講演といういとなみが、意外なところで、自分さがしにも役立つのだ。
ジャズの演奏にも、そういうところがあるんだろうなと思う。客席の反応によって、即興のニュアンスをかえていく。その過程で、予想外のフレーズを、思わずつむぎだしてしまう。そうして、新しい音の展開をつかむミュージシャンも、いなくはないだろう。
客のうごきで、即興にひろがりができるはずもない。あんなのは、インプロビゼーションについての空疎な紋切型。じっさいのミュージシャンは、あらかじめきめた段どりで、ことをはこんでいる。客なんかに左右されるわけがないだろう。
と、そう思いこむむきも、なかにはあろうか。しかし、私自身は、自分の講演歴から、逆もありうると判断する。聴衆が自分の新しい可能性をもたらすケースは、まちがいなく存在する、と。その意味でも、お客様は神様でございますという物言いに、私は共感をおぼえる。
自閉的なミュージシャンのなかには、客をじゃまだと感じる者もいようか。客の反応なんかにはふりまわされたくないと考える者も、ぜったいいないとは言いきれない。
しかし、客席にはどうせ聴衆がいるのである。ならば、それを余計者だとみなすのは、もったいない。せっかくいるのだから、自分の可能性をひろげる存在としてうけとめたほうが、得である。
また、じっさい、客をこやしにできるような人のほうが、ミュージシャンとしてものびるのではなかろうか。まあ、私が講演者として成長したとうぬぼているようで、気もひけるが。
さて、何度も書いてきたが、私はミュージシャンまがいのふるまいにも、およぶことがある。へたくそなジャズ・ピアノのステージを、いくどかこなしてきた。ついこのあいだも、注文をいただき、ミニ・リサイタルを開催した。
首都圏からも、依頼があればでかけたいと思っている。いまのところ声がかかるのは、地元の京阪神にかぎられる。しかし、いずれは営業範囲をひろげたいものだ。
いかんいかん。こんな宣伝文句を書きたかったのではない。話が脇へそれてしまった。客席とミュージシャンの創造的な遭遇が、語られねばならない。もとにもどそう。
私の演奏は、表面だけを聴けば、ジャズっぽくひびくこともある。しかし、即興はまったくできない。インプロビゼーション風のフレーズも、みなあらかじめしこんでいる。そこからズレることはない。運指の失敗で、計画どおりにはこばないことが、ないわけではないが。
客席の気配で、フレーズに色をつけるなんてとんでもない。私は、事前に練習した音を、そのまま反復するだけで、せいいっぱいなのだ。とても、聴衆との一体感にささえられて、新しい音をつむぐことなど、のぞめない。
はっきり言おう。演奏に関するかぎり、客はじゃまなのだ。客の気配はよくつたわるが、そのたびに私の指はちぢこまる。萎縮して、思いどおりの音がだせなくなる。そして、この状態は、いまだにあらためられていない。講演だと、けっこううまくいくのに。
にもかかわらず、である。私は、私の演奏も人に聴いてほしいのだ。人がいれば、うまく指がうごかない。なのに、聴衆をほしがる。このジレンマからぬけだせる日が、いつかくるのだろうか。