
「ジャズ・ビギナー」ということで、この連載を私は書きついできた。私が考えたタイトルではない。「ジャズ・ストリート」の編集部からもらった標題である。
はじめのうちは、これに違和感をいだいたことはない。だが、このごろは、ややわだかまりも感じるようになっている。
私がピアノの練習にとりくみだしたのは、何度も書いているが、四十一歳からである。主としてジャズにいどんできたから、ジャズ・ピアノの愛好家としてはビギナーだ。五十四歳の今でも、ビギナーだと思う。というか、六十になっても、七十になっても、ビギナーでありつづけるだろう。
じっさい、中年でピアノをはじめた私が、プロになどなれるはずもない。セミ・プロにも、とうていその腕はおよばないだろう。
まあ、ピアノでステージ活動をすることが、まったくないわけではない。しかし、その実体はトーク・イベントである。しゃべくりのあい間にピアノをはさんだもよおしだと言えば、わかっていただけよう。ウクレレ漫談ならぬピアノ漫談である。
それにこのごろは、つとめ先の雑用がふえ、練習時間がなかなかたもてない。老化ゆえに、体もおとろえ、今はすっかり頭うちである。将来、私の技術が急に向上するとは、とうてい思えない。
どうやら、永遠にビギナーでとどまるしかなさそうだ。だから、「ジャズ・ビギナー」というタイトルに、文句をつける権利はない。私がこれをうけいれたのも、そのせいである。ビギナーなんだから、「ビギナー」とよばれてもしかたがないなと、思ってきた。
しかし、ある日、とつぜん、ちがう考え方もうかんできたのである。
私は、高校生のころから、ジャズを聴いてきた。もう、四十年ほどなじみつづけてきたことになる。リスナーとしては、けっしてビギナーなんかじゃあない。耳はそうとうすれっからしになっていると、自分では思っている。
大学生ごろまでは、『スウィング・ジャーナル』あたりにも、目をとおしていた。だが、今はもう、ああいう雑誌を読まなくなっている。『ジャズ・ライフ』も、すっかりごぶさただ。まあ、『ジャズ批評』は、気になる特集のある時なら、手にとるが。
名盤案内のカタログめいた本も、まず見ない。書いてあることは、おおよそ想像がつくので、たいていすどおりである。まあ、これも、書評でとりあげるために、買う場合はあるが。
CDショップにいくと、今年の売り上げベストテン、みたいなコーナーに、よくでくわす。ジャズの部屋へいくと、そういうところで、おなじみの名盤を見かけることがある。たとえば、ビル・エバンスの『ワルツ・フォー・デビー』などを、である。
名盤案内などを読んだ人が、まず聴きだす。そんなCDが、毎年ベストテンをにぎわせているということか。どうやら、ジャズ人口の多くは、そういう初心者によってしめられているらしい。また、とちゅうで気がかわり、ジャズからさっていく人も、けっこう多そうだ。『ワルツ・フォー・デビー』が、毎年ベストテンへくいこむのも、そのせいだろう。
そして、私はそういう意味での初心者じゃあ、もうない。いわゆる名盤は、ほとんど聴かなくなっている。CDの購入は、ジャケ買いもふくめ、みな自分じしんできめてきた。ガイドブックなどには、ながされない。
ついでに書くが、『ワルツ・フォー・デビー』は、あまり入門むきじゃあないと思う。ジャズへの入口として、私なら、まず、きむらたくやのピアノトリオをすすめる。神戸のピアニストだが、あれほど初心者にわかりやすく音楽をとどけてくれるジャズマンは、そういない。あとは、ビージー・アデールのアルバムか。
話をもどすが、私はもう十年以上、ピアノの練習にとりくんでいる。腕はあまり上達しないが、しかし耳はこえてきた。ピアノのひびきには、そうとううるさいほうになっていると考える。
ジャズのレーベルであるECMが、クラシックのCDも売っていることは、知られていよう。そんなECMで、アンドラーシュ・シフのベートーベンを聴き、びっくりした。音楽のつくりかたが、おそろしくデリケートになっている。
ひとつひとつの打鍵に、これだけ神経をとぎすましているジャズのピアニストは、まずいない。私は、シフの音に、すこしうちのめされた。もちろん、私がその音をまねることはできない。だが、聴きとれるようになってきたのである。ジャズではあるが、ピアノの練習をつづけてきたために。
今は、アカデミックな古典音楽に、シフ経由で興味をうつしだしている。どうやら、「ジャズ・ビギナー」を名のっているうちに、卒業をしはじめているらしい。

